2017/03
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<連載>小説「バルセロナの侍」Novela "Samurai de Barcelona"34 絶体絶命の男

  スペインはバルセロナに日本人探偵がいることを、耳にした人もいるだろう。ヨーロッパでは彼を「バルセロナの侍」と呼んで、数々の陰惨な事件とともに記憶に留めている人も多い。彼は嫌がるだろうが、彼の一番近くで事件を目の当たりにしてきた私は、このへんで、それらの奇怪な出来事の一部でも記録しておこうと思う。謎に満ちた彼の探偵としての「侍」ぶりも、この際、世間に知らしめておきたい。もっとも、彼が私の執筆を寛容をもって見てくれるかどうか、だが。

34 絶体絶命の男


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月明かりだけでは陰になっていたラミロの左の耳たぶ付近の色素が、佐分利の照らした光で浮き彫りになった。光が揺れたとき、黒光りしたヒルがその首筋から耳穴に入っていくように見えた。ラミロが幼い時の病気で左耳が黒紫色に変色していたことを佐分利は知っていたのだ。

 

ラミロは半身の構えのまま佐分利を見据えるようにしていた。沈黙が青白い頬に流れ、時折吹く生暖かい風に髪をなびかせていた。いつの間にか佐分利の腕時計から放つ光の束がラミロの体からずれてきているな、と私が何となく思ったとき、私の視界の上左隅で、尖塔の上に浮かぶ雲が月を覆い始めていた。

 

と、その瞬間、ラミロの身体が消えた。それと同時に佐分利の上半身が激しく反った。佐分利のすぐ後ろの壁がガシャと鈍い音を立てた。私はすぐに手裏剣だと思った。佐分利から「黒ずくめの男」に襲われた際の話を聞いていたからだ。佐分利は、態勢を立て直しながら右手をラミロが消えた暗闇に思い切り振り込んだ。礫(つぶて)だ。その暗闇から風の音に紛れて「ウッ」という呻き声が漏れた。

 

この尖塔付近ではいつの間にか小さな旋(つむじ)風が吹き、我々の立っている渡り廊下でも足元で渦を巻き上げているように感じ始めていた。生暖かった風に幾条かの冷たい風が紛れ込んでいた。佐分利はなおも礫を矢継ぎ早に暗闇に放った。いつもながら、間近で見ていても人間業とは思えない早業だ。この間、ほんの数秒だった。

 

ラミロの消えた闇にすでに突入した佐分利に続いて私とマリアも続いた。隣の尖塔の中に入った我々はマリアのかざす懐中電灯を頼りに夢中で階段を駆け上って行った。少なくとも佐分利の投じた最初の礫は命中していたはずだ。佐分利が放った礫の威力は私が一番よく知っている。ラミロはもう逃れられない。

 

目が慣れてきて闇の中でもラミロが螺旋階段を駆け上がる姿を捉えることができた。すると、ラミロが踊り場で急に立ち止まり、こちらを見下ろしている。我々を迎え撃つのか。佐分利が立ち止まり、私とマリアも足を止めた。荒い呼吸音だけが先のすぼまった尖塔内に響き渡っていた。ラミロの手に茶封筒はなかった。畳んで懐のポケットにでも隠したのだろう。佐分利が螺旋の手摺り越しに左上のラミロに言い放った。

「もう逃げられないな」

 

その声の響きが終わるか終わらないかのうちに、ラミロは明かり取りの穴に飛びつき、スルスルと体を外へ摺り抜けた。尖塔から身を投げたのか。私は茫然と息を呑んでいたが、佐分利はすぐに踊り場まで駆け上がり明かり取りの穴に上半身を入れた。



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