2017/04
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日本語を考える(続)

日本語を考える(続)440Pc

 

①「ありがとう」と「すみません

 
日本の大人(私の感覚では35歳以上を言う)は「近頃の若い者は、ありがとうも言えない」と嘆きますが、若い者に限ったことではなく、現代日本人は「ありがとう」という表現に違和感を感じているのではないでしょうか。


「有り難う」は文字通り「有ることが難い」で、「稀なことを尊ぶ気持ち」から感謝の意に広がったらしいですが、そうだとすると、稀なこと・変わったことを忌み嫌い皆と同じであることに辛うじて安堵することを習いとして来た現代日本人には、決して使い勝手の

良い言葉とは言えないことに気が付きます。実際、若者や子供には「ありがとう言いなさい」と言う大人たち(もちろん私も含む)は、「ありがとう」の代わりにすみません」という便利な言葉を、打ち出の小槌のように使うのが常です。

 

「ございます」を取った「ありがとう」は、例えば上司には使えないし、「ふむ、でかした」と相手を見下すように響くから、「ありがとうございます」という長たらしい表現を言うことになります。それよりも、礼を言うときだけでなく、謝るときにも依頼するときにも使え、場合によってはそのどれにも解釈できる「すみません」を重宝し汎用するのは、現代日本人の苦肉の策のようにも見えます。「有り難う」と相手を持ち上げるよりも、「す(澄・清・済)みません」≪(それでは私の心が)澄(清)まなく、(気持ちが)済みません≫と自分が一歩下がるほうが無難だからでしょうか。

 

②「ニホン」か「ニッポン」か

東京の「日本橋」は「ニホンばし」、大阪の「日本橋」は「ニッポンばし」と発音するのに象徴されるように、「ニホン」と「ニッポン」、どちらが正しいかというのはあまり生産的でないので、影響力のありそうな例を二つ紹介しておきます。



NHK
(日本の共通語の模範を示しているとの噂もありますが、どうでしょうか…)の日本
の発音に関しての見解は「正式の国号として使う場合は[ニッポン]。そのほかの場合には[ニホン]と言ってもよい。」となっています。もう一つはケイザイ大国の象徴である日本銀行お札「NIPPON」と書かれていることです。

中国語の影響のままの発音ならばニッポン(ジパン→ニッポン、ジパング・ジャパン)で、ニホンは日本人の好むやわらかな発音というところでしょうか。
また、NIHONと綴るとHを発音しない言語(スペイン語やフランス語など)からすると「二オン」と締まらなくなります。これは円を国際表記上はENでなくYENとするのと同様に、表記した際の発音上の配慮も絡んでいるかもしれません。サッカーの応援などで押し出しの強さを表したい時は「ニッポン」を使い、やわらかな印象を表したい時は「ニホン」を使える、という日本語の豊かさと捉えれば良いのではないでしょか。

 

以上の点から、国際的には「ニッポン」が通用しやすく、国内的には「ニホン」「ニッポ

ン」のどちらでもいいのではないかと考えています。でも発音より重要なのは「日本人がどう日本と向き合うか」ということだと私には思えるのですが。

 

③「ニホン」「ニッポン」の<余談>

ところで、これは作家の井上ひさし氏の話だと記憶していますが、日本銀行へ電話で「も

しもしニッポン銀行ですか?」と聞いたところ、その行員は「はい、ニホン銀行です」と答えたというエピソードもあるくらいですから、「ニホン」か「ニッポン」かという問題は、潰すか潰されるかの国際社会の厳しさを知らない、おっとりとした日本人の国民性が表れていて、なにか微笑ましささえ感じます。


ついでに、私のクラスの初級の生徒が日本語教科書を見ながら次のようなやりとりをして
いるのを小耳に挟んだので紹介しておきます。

「おい、ここに書いてあるニホンってなんのことだ?」

「ばかだな、ニッポンのことだよ」

「ああ、そうか。ニッポン人はハシをニホンも器用に使うからだよな」

「ちがうよ。二冊のホンを読むからだよ」

「そうか、まじめなんだよな」

私「…」(~_~)

 

 

④「じっぷん」と「じゅっぷん」

23日前に「10分」を「ジュップン」と繰り返し発音していたNHKアナウンサー当

人が同じニュース番組で今度は確かに意識的に「ジップン」と発音しているのを聞

いて、なるほどこの発音はNHK内でも「揺れている」に違いない、という印象を持ち

ました。たぶん規範的発音を重視する先輩アナウンサーにでも注意されたのかもし

れません。

 

私がこの問題に興味を持つのはどちらの発音が正しいかということではなく、仮に

10分」の読み方は「ジップン」「ジュップン」のどちらでも良いとしたとして

も、「じっぷん」という仮名表記はどうするのか、という表記上の問題です。「外

国語としての日本語」の辞書づくりが本格的に進めば、必ずこの問題は現代日本語

の持つ矛盾点を指摘することになるだろうと思っています。

 

「現代かなづかい」は表音的仮名遣いの印象があるが、実は現代共通語音の原則と

歴史的仮名遣いの原則の折衷で成り立っていて、外国語としての日本語教育が順調

に発展すれば「現代かなづかい」の持つ未解決の課題に突き当たらざるを得なくな

るでしょう。

 

⑤「恍惚な人」「病気な人」?

昔「恍惚の人」という本がベストセラーになりましたが、この「恍惚」は形容動詞

(ナ形容詞)に成れないのか、と調べたことがあります。つまり「恍惚な人」とで

きないのか、という疑問です。同じコウコツでも「硬骨」は「硬骨な」とできます

が、「恍惚」はタリ活用の形容動詞で「恍惚と」とは成るが「恍惚な」には成らな

いのです。日本語教育では形容動詞はナ形容詞として処理しているのが現状だか

ら、「恍惚」は名詞とするかタリ活用の文語扱いにするしかないのかもしれない。

 

ナ形容詞に成れないという点では「病気」も気になる語で、「元気」「健康」が

堂々と「元気な」「健康な」と使えるのに「病気な」とは言えない。同様に「軽

症」「軽傷」「重症」「重傷」は名詞としか使えない。しかし「重態(体)」を調

べてみると、これは「重態な」とできるらしい(私はあまり聞かないが)。もう少

し危なくなって「危篤」になると、また「危篤な」とは言えないのだそうです。興

味のある方はこれらの語がナ形容詞に成れるか成れないかの境目に、何か法則があ

るのか調べてみるのも面白そうですね。

 

⑥「いなずま」について

雷のいなびかりは「稲妻(いなずま)」と書くが、なぜ「稲」

と「妻」なのか、以前に何かで読んだような気もするが、どうも思い出せない。こ

れが調べ出すとなかなか面白い。

 

稲妻」は「稲(いな)つるび」とも言い、雷電と稲がつるんで(つまり交接し

て)稲が妊娠する、ということらしい。雷が水田にピカッと光った瞬間に稲が穂を

孕む、昔の人はそう信じていたようです。

 

この場合、雷が夫で稲は妻、になぞらえられます。「つま」は「妻、夫、褄(着物のツマ)、爪、具(料理の添え物)、端(建物のツマ)」すべてに共通する性質として「物の本体のワキ・ハシ」の意味を持っていますが、「妻問い婚」の時代に妻の族の家の端(つま)に妻屋を建てて住む「夫妻」が互いに「つれあい」を表す語が「つま」であったところからすると、「稲妻」は本来は「稲の夫(つま)」の意味だったらしい。

さらに、「神」の「申」の部分はいなびかり・稲妻の意で、神とはもともと雷神・

天神を意味したことを考えると、太古の時代の人々の「神と雷と稲への素朴な想

い」がこの「稲妻」という語に偲ばれ、この語を調べる前には持てなかった豊かで

鮮やかなイメージを得られたような気がします。

 

⑦「知る」について

日本語の「知る」はなかなか厄介な動詞のようです。他動詞のくせに通常の他動詞

の意味のようには「知ってある」とは言えず、「瞬間的に完了する動作」を示す意

味における疑問形「知りますか?」や動作の完了した「結果の継続状態」を否定す

るのに「知っていません」も又通常では使えない。語としての「知る」の働きは空

間的にも時間的にも幾つかのレベルの異なる面を包括していて、それがこの語を複

雑にしているのではないかと感じています。

 

因みにスペイン語では「知っている」(結果の継続状態)に当たる語は二つに使い

分けられています。まず「saber」は知識・技能として「知っている」、また

conocer」は体験や見聞を通して「熟知している」場合に使われ、人に関しては

「人を知っている」「知り合いになる」(これは「瞬間的に完了する動作」に重な

る)の意味にも使われています。

 

一方「知る」(瞬間的に完了する動作)に当たる語は、「情報・調査によって知

る」(informarse)や「気付く」(darse cuenta)のように再帰動詞として現れ

ます。

こんなこともヒントにして日本語の「知る」の不思議について考えようとしていま

す。

 

⑧旅の身なものですから

私が埼玉滞在中にご近所の方と話していて、ふと「私は旅の身なもの

で」と口走ったのですが、この表現はこれでよかったのか、と文法的に検証したく

なりました。これはもちろん<旅の身「の」者ですから>ではなく<旅の身「な」

ものですから>でなくてはならないのですが、この「な」は断定の助動詞「だ」の

連体形ということなのか、するとこの場合の「もの」は感動の助詞でいいのだろ

うか、と札幌に着いても考え続けている始末です。

少し調べてみれば分かることなのでしょうが。

 

するとこの場合の「もの」は感動の助詞でいいのだろうか…

まだ、考えつづけています。大まかに言えば<旅の身なものですから>の「もの」の捉え方は「感動の助詞」でいい、と思い始めています。要するに、形式名詞「もの」の終助詞的用法ですから、これを名詞としても助詞としても構わないのかもしれませんが。

 

しかし、私は自分が口走った<旅の身なものですから>の表現そのものに大いなる疑問が

沸いてきました。もし「もの」が「感情を込めて理由を表す終助詞」だとすると、<旅の身「な」もの「ですから」。>ではなくて<旅の身「だ」もの。>となるはずで、「な」の代わりに「だ」が置かれ「ですから」は不要なはずです。

 

「だ」の連体形としては歴史的に見れば「だ」と「な」の両方とも使われていたらしいから、これはこれで納得したとしても、「もの」にはすでに「から」「ので」の理由の意味が含まれていて、<ものですから>は二重に理由を示している誤用、となるのではないか、ということです。仮にこの「もの」を接続助詞と捉えても、最後の私の疑問は解決しないのです。

もっとも「もの」には「不満・甘えなどの気持ち」が内在しているので、話者が大人の場

合、その種の感情を剥き出しにしないためのオブラートとして「ですから」を加えているのかもしれませんが。

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tag : ありがとう すみません 10分 旅な身 ニホン ニッポン 知る 稲妻

 
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