2017/02
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日本語教育のために(続)

 
第一回バルセロナ研修会440pc 102_0241-CB

 先日アップした「日本語教育のために」の続編です。

前編同様、主に日本語教師を目指している人たちに向けての投稿文の再録です。

今回は19個の文章を載せました。このテーマに沿う文章がまた新たに見つかりましたらアップします。

 

日本語教育のために(3)

 
 

 この
8月、私は休暇を兼ねてマラガでスペイン語コースをとってみました。この種のコースで楽しみなのはいい友人ができることです。今回も年齢、性別、国を超えた掛け替えのない友人達を得ました。彼らを見ていると「我々日本人となんて違うのだろう」と感じる時と、「人間は結局同じだ」と感じる時があります。「違う」と感じるのは異なる文化基盤で培われてきた彼らの慣習・習慣だけを見ている時で、「同じ」と感じるのはその文化的背景をトータルで見ようとしている時です。

 その国の文化的背景をトータルで見ることを心掛けると、不思議なことに、どの国も良い面と悪い面がちょうど差し引きゼロとなって収支のバランスがとれているように感じられます。私は今スペインに住んでいますが、一つだけ例を挙げますと、ここでは「お客様は神様」ではなくて「サービスを受ける者がサービスを提供する者に感謝の意を表する」のが考え方の基本で、店で買い物をするとレジではまず客が「ありがとう」を必ず言い、店員は時には何も言わないこともあります。これは慣習的には日本と逆でしょう。ですから日本人は「スペインの店員の教育はなっていない」と腹を立て、スペイン人は「日本人の客はありがとうも言わない礼儀知らずだ」ということになってしまいます。

 日本文化・日本語をもっと積極的に海外へ紹介すべきだ、と私が感じるのは多文化・多言語の共存を探る「真の国際化」の動きがもはやこの時代の潮流となっていると考えるからです。

 

日本語教育のために(4)


 海外に暮らしていると、どうしても日本を鳥瞰的に見てしまいます。つまり地球儀の上のちっぽけな日本列島が目に浮かび、つい「しっかりしろ、日本」となるのです。同様に、日本語教師としては、日本語を英西独仏などの他の言語と比べて「しっかりせよ、日本語」と言いたくなるときも少なくありません。しかし、別に日本語に罪があるわけではなく、この豊穣な言語を使いこなせないでいる我々自身に責任がある訳ですが、その苛立ちが多少文章に出てしまいましたね。ただ、真の国際化時代を迎えつつある今日、日本語は他の大言語と比べてもその存在価値は極めて大きい、ということを日本人自身が再認識することが先決のような気がします。


 

日本語教育のために(5)


 どんな言語もその固有の文化と根が繋がっていて、言語を純粋な道具として使うことは不可能だと私は思っています。国際語として作られたエスペラント語が期待されたほど広まらなかったのは、文化に根付いていない人工言語の宿命でしょう。今日、英語が国際社会で重要な役割を果たしていて、スペインでも英語学習者が他の言語に比べて圧倒的に多いのは事実です。しかし、この英語にしても結局は各言語への表面的なつなぎの役割に留まる、と私は見ています。

 どんな言語も掛け替えのない独自の文化世界を持っており、その言語を母語とする人々が自分の存在理由をそこに求めるのは自然な感情です。特にベルリンの壁が崩壊した後、ますます多くの文化と言語が独立の声をあげ、それぞれの尊厳を主張する動きを我々は目の当たりにしています。これからの国際社会では母語以外に自分にとって重要な4言語あるいは
5言語以上を習得するのが当たり前になるでしょう。現にスペインでも若者達は英・仏・独語の次に習得すべき言語を日本語・イタリア語・ロシア語などの中から選んでいるようです。私が抱いている「多文化・多言語の共存」は一国の中のイメージではなく、飽くまでも国際社会における動きとして感じていることです。

 

日本語教師の魅力


 日本語教師は言わばこれからの職業で、社会的に正当な評価を得るかどうかは現在この仕事に就いている我々次第だと言えるでしょう。しかも、現日本語教師の責任は、後世から見れば、たぶん我々の想像以上の重さを持っていると思っています。私はバルセロナで日本語学校を開いてから8年余りになります。日本で13年間高校の国語の教師をした後、私個人の人生観から「二つ目の人生」を始めました。

 日本は東洋にありながらすでに西洋にどっぷりと足を突っ込んでしまっています。その西洋社会も行き詰まりを見せ、新しい価値観を求めて東洋、とりわけ日本に高い関心を示し始めています。東洋の黄色人種である日本人の私が、プライドの高いスペイン人を相手にヨーロッパの国際都市バルセロナで「外国語としての日本語教育」を始めたのは、新しい鼓動を伝え始めた国際社会を強く意識したものでした。

 私は日本語教師という職業にレベルの高い役割を要求しています。日本語・日本文化を伝えるプロであると同時に「真の国際化」の担い手として将来の日本の国際社会との関わり方をも左右する重要な存在だと考えています。私の捉えている日本語教育のイメージが、現時点では、一般の日本人の日本語教育に対して持つイメージとかけ離れていることは充分承知しています。しかし、新しい国際化の波は、すでに国語・日本語関係のお偉方や日本政府の「外国語としての日本語教育」への意識を変えざるを得ない時期に来ている、と私は思っています。

 多文化・多言語の共存を模索する「真の国際化」が進む中で、「日本語・日本文化を国際社会の共通財産に」という外国人達の声に応える準備ができていないことは、我々日本語教師の責任でもあるでしょう。充実しているとはお世辞にも言えない現行の日本語教育の環境を、実質的に改善していくには、日本語教師あるいは日本語教育に関心のある人たちがまとまった声を彼らに届ける必要があるだろうと思っています。そういう意味で、このフォーラムの中から日本語教育に関する問題を整理し具体的な解決へ声を集結する「連絡会」のようなものができればいいな、と期待しています。

 

⑤日本語教師の仕事とは?
 

 私はバルセロナで日本語学校を始めてから8年目になります。日本から「スペイン人がどうして日本語を勉強するのですか?」という質問をよく受けます。これに対して私はいつも「日本人が外国語を勉強する理由と変わりありません」と答えていますが、なかなか納得してもらえないようです。いま私のところでは70名弱の日本語学習者がいますが、1,2の例外を除いてすべてスペイン人です。日本人は「文化は外国から」という考え方が骨の髄までしみついていて「日本の文化を外国へ」という発想が極端に欠けている国民だと思います。自分達が日本について外国に紹介しないのだから、外国人が日本について無知なのは当然の帰結なのですが、当の日本人は外国人の日本に対する無知あるいは誤解に出くわすと、その無理解を嘆きます。

 私は現在「日本‐イベリア文化交流の会」の代表としてもスペイン人に日本文化を紹介する活動をしていますが、外国人が日本語や日本文化にこれほど関心があるのに日本政府をはじめ日本人の意識が前述のごとくですから、とにかくこの意識の差を埋めることに少しでも役に立つならと思い、このコーナーに投稿させて頂きました。最大の文化は言語です。日本語を勉強する外国人がこれからますます増えていくことは、間違いないです。その理由については別の機会に譲って、今回は、これから日本語教師になろうとしている方々に「日本語だけでなく、日本についてしっかり勉強して、プロ意識を持った教師をめざして下さい」とエールを送って、終わりにします。

 

⑥日本語教師を目指すためにまずすべき事


 日本語教師という職業はこれからの職業で、すでに社会的評価が定まった職業と比べて、それを目指すにはよりしっかりとした意志が必要かと思われます。自分が本当に日本語教師になりたいのか確かめることが、まず第一にしなければならないことだと思います。自分の意志を確認する方法としては、具体的にどんな日本語教師になりたいのかをイメージしてみるとよいと思います。仕事をするのは日本国内か海外か、海外ならどこがいいか、さらにそれを実践している現役の日本語教師の実際のイメージとを重ね合わせて、自分が本当に日本語教師を目指して努力できるか、総合的に判断したらいかがかと思います。いずれにしても日本語教師を目指すには多分に開拓者魂が必要ではないかと考えています。少し抽象的なアドバイスになってしまったので、私が実際に私の学校で日本語教師を採用する際に重視するポイントを申しますと、日本語についての知識や教授技術以外に、やはり、生身の日本語学習者に「教師」としてきちんと対応できる人間性を養ってきているか、という点です。(この「教師」というのはなかなか難しい問題を含んでいるので今回は触れませんが)「日本語教師も教師です」というのが、私がまず新人教師に言う言葉です。

 

ヨーロッパでの日本語教育


 スペイン及びヨーロッパでの日本語教育の現状についての質問がありましたので、このフォーラムでも簡単に報告しておきます。スペイン全体の日本語教育の現状は残念ながらまだ把握していません。現在バルセロナでは日本語教師会があり、毎年バルセロナで実施されている日本語能力試験や日本語弁論大会の運営を中心に活動しています。会所属の教師は現在15名で、日本あるいはスペインの大学や公立・私立の語学学校で経験を積んできたベテラン教師が多いです。教師会に所属していない教師も含めると、この三倍はいると思われます(例えば私の学校では5名の日本語教師がいますが、教師会所属は私のみ)。

 マドリードの日本語教師数もバルセロナと同等もしくはそれ以上と推測しています。ヨーロッパの日本語教育については意外と情報が日本に届いていないようで、「日本語を勉強するスペイン人なんているのか」という類の質問が時々私のところに寄せられるので、少しずつこちらの現状を報告していきたいと思っています。「ヨーロッパ日本語教師会」も数
年前に発足し、25か国以上の参加があるようです。主な参加国の教師会の会員数を列挙しておきます。スペイン(バルセロナ日本語教師会:15名)イギリス(英国日本語教育学会:約100名)フランス(フランス日本語教師会:43名)ドイツ(ドイツ語圏大学日本語教育研究会:約50名、ドイツ語圏中等教育日本語教師会:75名、ドイツVHS日本語講師の会:66名)イタリア(イタリア日本語教育協会:約40名)オーストリア(オーストリア日本語教師の会:13名)スイス(スイス日本語教師の会:55名)ベルギー(ベルギー日本語教師会:20名)以上、ヨーロッパにおける日本語教育に関心のある方に何らかの参考になれば、と思い報告しましした。


 

⑧リンゴがいくつありますか。
 

 ≪りんご「が」いくつありますか≫は確かに不自然な文です。≪りんご「は」いくつありますか≫が自然でしょう。「は+疑問詞」「疑問詞+が」が基本で、「が」を使う疑問文を示すなら≪いくつりんご「が」ありますか≫とすべきです。これは、例えば≪テーブルのうえにりんご「が」あります≫という文型で「が+あります」を定着させた流れの中で安易に「が+いくつ+ありますか」を示したのだと思います。「が+好きです」の文型についても疑問文になると、≪音楽「が」好きですか≫は不自然で、私は「が」を「は」に直して教えています。日本語教科書は数多く出ていますが、残念ながら必ずと言っていいほど欠陥が見つかります。

 他の英西独仏語などの外国人に対する言語教育に比べると「外国語としての日本語教育」の歴史がほとんど無いに等しいこともありますが、現在の日本語教育は言わば「外圧」によって必要に迫られて渋々始められた、というのが実態でしょう。日本語教育について考えるとき、放っておけば母国語が消滅したり隣国の言語にとって代わられる危険が常にある国々と、そんな危険性などついぞ考えたことのない日本との、母国語への国や国民の意識の差を私はいつも感じます。日本語教科書づくりに積極的に厳しい注文をしていくことも日本語教師の大事な仕事の一つで、ひいてはそれが日本語教育全体のレベルアップに繋がると思います。

 

⑨取り計らうについて


 飽くまでも、この表現が示される一般的状況を想定しての短見です。「取り計らう」に尊敬の助動詞「れる」が付くと「取り計らわれる」となり、これに「たい」が付くと「取り計らわれたい」となります。「取り計る」という単語は私の観るところ存在しないと思います。従って、それに「れる」が付いた「取り計られる」さらに「たい」の付いた「取り計られたい」も存在しないことになります。「取り計らう」の構成を見ると、「とり」は接頭語で「計らう」(「はかりあふ」の約か)の「処置する」の意を受けた単語と思われます。「計らう」の語自体は古く、『日本書紀』にすでに使用例が見られます。


 

ローマ字表記についての疑問(1)


 このフォーラムに寄せられた台湾のtomyさんの質問にも関連することですが、私はローマ字表記についての疑問を以前から持っていましたので、皆さんのご意見を伺いたいと思います。まず疑問を持ったきっかけを申しますと、私のところへ来る日本語学習者で独学や他の学校である程度学習してきた人の「を」の発音が「WO」になっていることが目立つことに気がついたからです。

 もちろん「を」の前の音の影響によって自然に「
WO」に近くなったり、歌の場合、歌唱法として「WO」と発音するのは問題ないと思いますが、日本語の五十音図の音節の発音としては「お」も「を」も「O」のはずです。平安中期までは「を」は「お」と区別されて「WO」と発音されていたようですが、現在では音節発音上の両者の区別はないと理解しています。これは「日本式」ローマ字綴り方、あるいはパソコン等のローマ字入力で「を」は「WO」で入力するようになっていることが影響しているのではないか、と私は想像しています。

 私は現在のローマ字表記の不統一さは早急に解決しなければならない問題だと思っています。ご存知のようにローマ字綴り方には「標準式
(俗に「ヘボン式」とも言う)」「日本式」さらに両者を併せて認めた「訓令式」があり、この不統一から来る日本語教育への混乱は容易に予想できるし、それは現在すでに現れてきていると思われます。一つだけ例を挙げて問題提起をしておきたいと思います。<私は富士山を知っています。> (1)Watasi wa huzisan wo sitte imasu.(日本式) (2)Watashi wa fujisan o shitte imasu.(標準式)(1)(2)とも発音を意識したローマ字表記です。次に「かな文字」を意識したローマ字表記を示します。 (3)Watasi ha huzisan wo sitte imasu.(日本式) (4)Watashi ha fujisan o(wo) shitte imasu.(標準式)もし日本のローマ字綴りが日本語の本来の発音に近いものを示す役割を持つものならば、上の中では(2)になると私は考えますが、皆さんはどう思われるでしょうか。 Shuji( Syuzi,Shuuji,……)

 

⑪ローマ字表記についての疑問(2)


 私もkfcsさんと同意見で、日本語学習者にはできるだけ早くローマ字に頼らない学習に入ることを薦めます。ただ問題は、日本に興味を持つ外国人のうち実際に日本語教師の指導のもとで勉強しているのは、ほんの数パーセントというのが現状ではないでしょうか。しかも「ローマ字の綴り方」は室町末期以来、日本社会に少なからぬ影響を与え続け、日本の初等教育の学校現場でも正式に教えられていることを考えると放っておけない面があります。

 日本の初等教育では「日本式」を基として教えられ、実社会では英語の発音の知識から「標準式」を基として慣用を優先して使用されている、というのが私の認識ですが、最近ではパソコンなどのローマ字入力の影響で「日本式」(
si,ti,tu,zi,woなど)が慣用として広まっているように思います。現に「を」の発音を「wo」と思い込んで教えていた日本語教師を私は一人ならず知っています。私が危惧しているのは単に「を」が「wo」と発音されるようになる(つまり平安中期以前に戻る)ことだけではなく、日本あるいは日本人が「外国語としての日本語」を想定してそれに対してきちんと準備して来なかった「つけ」を、さらに先送りすることになってしまうのではないかということです。

 具体的にいうと「ローマ字の綴り方」について昭和
29年に国語審議会が答申したものを内閣訓令・告示として公布された「訓令式ローマ字綴方」(「日本式」を主とし「標準式」{shi,chi,ji.など}も使用できるとしたもの)の影響を「外国語としての日本語教育」の現場が受け続けていることへの危惧です。私は長い間日本を離れているので、現状認識が違っていたら訂正願います。

 

⑫かわいいだろう。かわいそう?(1)


 まず「そう」について。接尾語あるいは「そうだ」全体で助動詞とする説が一般です。質問の例は「対象について主観的判断を示す推量・様態」の「そう」だと思います。従って、イ形容詞では語幹に付きます。「かわいい」にこの「そう」を付けると「かわいそう」になります。ここで「かわいい」(「可愛い」は当て字)の意味を観てみますと、「かははゆし」(顔映し)-「かわゆし」の転で、「恥ずかしくて顔がほてる-見るに忍びない-気の毒で見ていられない-可憐だ-愛らしい」と転じ、現代では「愛らしい」の意だけが残っています。

「気の毒」の意は「かわいそう」(「可哀相」は当て字。ナ形容詞)が引き受けているので、「かわいい」に推量・様態の「そうだ」を付けた形は事実上使えないことになります。「不確かな断定」も含めると「かわいい(だろう)と思う」「かわいいみたいだ」「かわいいようだ」「かわいいらしい」(これも「かわいらしい」<イ形容詞。「かわいい」とほぼ同意>と紛らわしい)などを場面によって代わりに使っているようです。もちろん伝聞の「そうだ」を付けた「かわいいそうだ」は問題ありません。

 

⑬かわいいだろう。 かわいそう?(2)
 

「かわいらしい」は「かはゆらし」(「かはゆし」の語幹+<いかにも~だ><~の感じがする>の意の接尾語「らし」)から来ているので、語源的にはすでに主観的判断が入っていると思いますが、「かわいらしそう」も論理的には可能だと思います。「にくらしい」-「にくらしそう」、「きたならしい」-「きたならしそう」、「ばからしい」-「ばからしそう」、「いやらしい」-「いやらしそう」(後の二例はナ形容詞の語幹に付いた形)などは使えそうですね。でも、言葉は論理よりも習慣・慣習に拠るところが大きいですから、あとはその表現に違和感を覚えるかどうかだと思います。

 

⑭「気にかかる」と「気になる」


「気になる」は「気にかかる」(心配でそのことが頭から離れない)も含めた広い意(気が惹かれてそれについて考えてしまう)に使われるようです。 (1) ≪彼の隣に座っていた、あの娘が「気になる」≫と(2) ≪彼の隣に座っていた、あの娘が「気にかかる」≫を比べてみると、(1)では「あの娘」そのものに気が惹かれて、「彼の隣に座っていた」という状況は、「気になっている」本人にはあまり影響を与えていないと思われます。

 一方
(2)では「彼の隣に座っていた」という状況が、「気にかかっている」本人に影響を与えている原因・理由かも知れない、と思わせます。この場合の「彼」は「(乱暴者の)彼」か「(口のうまい)彼」か、とにかく「あの娘」の身に降り掛かる心配の種になる可能性があります。もう一つは「あの娘」自身がひどく具合が悪そうな場合で、「あの娘」に心配の原因がある場合です。「気にかかる」はまさに「ある事が自分の気持ちに引っ掛かってなかなか外れない」状態で、「気になる」の「気持ちが自然に推移して別の状態になる」意より強いものが感じられます。

 

⑮「見つかる」と「見つける」 自動詞と他動詞


 まず、日本語には欧米語の文法を当て嵌めた自動詞と他動詞の区分けは馴染まない、という立場をとる説も少なくないことを確認しておきます。「その語の表す作用が他に及ばず、目的語を必要としない動詞」が自動詞の一般的な定義ですが、他動詞の対(つい)として出来た自動詞には奈良時代の「自発」「可能」「受身」の助動詞「る」の影響が見られると思います。

「見つける」(探し出す:他・下一)は文語「見付く」(他・下二)から来ていて、「見つかる」(探し出される:自・五)は文語「見付く」(自・四)(意味は「見慣れる」)から「見つける」の自動詞形として誕生したと思われます。(自・他の順でこれに似た対応を示す例を挙げると:「閉まる・閉める」「始まる・始める」「下がる・下げる」「掛かる・掛ける」など)「いいアパートが見つかった」の場合の「見つかる」は(探し出される、発見される)の意味からも「受身」の意が感じられます。日本語における自動詞・他動詞についてはまだまだ論議の余地があります。

 

⑯条件節の「は」について


「後に否定語を伴い、その意味を強調する」のは係助詞「は」の機能の一つですが、なぜこの機能を持つのか、という問いに答えるには「は」の本質に触れなければならないでしょう。係助詞「は」は「その前の言葉を肯定・提示し、後にかかる部分での明確な解決・説明を求める」性質を持っています。したがって、肯定文よりもいっそう「明確な解決・説明」を求められる否定文では特に「は」が現れやすい、と言えます。

 →≪これは私の本で「は」ありません≫次に、条件節の中では「は」は使われにくいのはなぜか、について。「は」にはもともと「条件の提示」という性質があり、接続助詞「ば」に通ずる機能が見られます。(≪見ず「は」のぼらじ≫≪恋ひしく「は」とぶらひ来ませ≫)このことから条件節の中で更に「は」を使うことは自ずと避けられて来たのだと思います。→≪明日雨でなければ≫言葉は理屈で説明できない部分も多いですが、特に大人の日本語学習者には論理性への欲求を満足させてあげることも必要かと思います。参考になればいいですが。

 

⑰素敵


「素敵」については私も以前調べたことがあるのですが、漢字は当て字です。「素的」あるいは「素適」と書く人もいます。問題なのはこの語源です。私が調べたときは、結局「語源未詳」でした。以下に幾つかの語源説を挙げておきますが、これは、肩書きの有無、専門家か否かを問わず、国語学者、日本語学者、語源学者を含めてこの問題に知恵を出して頂きたいものです。

 <語源説1>「素晴らしい」の「す」に「的」がついたもの。<語源説2>「すってんきゅう」(「すってん」は「すってんころり」「すってんてん」に通じるか?「きゅう」は胸が締め付けられる気持ち?)が「すってんき」-「すてき」となった。<語源説3>「出来過ぎ」が引っ繰り返り、「すぎでき」-「すでき」-「すてき」となった。「すてき」は江戸時代の滑稽本「浮世床」「浮世風呂」などでその使用例が見られるが、私としては<語源説3>の引っ繰り返り説が、江戸時代の遊び心が感じられて面白いと思っています。でも、いずれの説も仮説の域を出ていなく、今のところ「語源未詳」ということになりそうです。

 

⑱「二十日」「二十歳」についての報告(1)


「二十日」「二十歳」の読み方についてNHKのアナウンス室に問い合わせていたのですが、デスク氏からその返答が届きましたので報告します。≪「二十日」は「はつか」と読むのが普通です。「にじゅうにち」とは言いません。「二十歳」は、通常「はたち」と読みますが、事件、事故で年齢を言う場合などは「にじゅっさい」と発音することもあります。≫以上が返答の全文ですが、私はさらに①≪「にじゅっさい」と発音される時のひらがな表記は「にじっさい」が正しいのか「にじゅっさい」も許容されるのか≫②≪「二十日」「二十歳」に見られるように11以上では20だけに今日でも特別に和語が使われるのは何か理由・云われがあるのか≫の二点について質問をしましたが、これらについてはまだ返答が届いていません。

 ①については、字音仮名遣い「十(ジフ)」「執(シフ)」「入(ニフ)」→現代仮名遣い「ジュウ、ジッ(十手)」「シュウ、シッ(執権)」「ニュウ、ニッ(入声ニッショウ)」からすれば、「にじゅっさい」よりも「にじっさい」が自然だと思われ、実際、手元の漢和辞典(角川新字源)で「十」を引いてみても「ジュッ」の読みはありません。それでも「十分」「十本」のように日常よく使われる語は「ジュウ」に引かれた「ジュップン」「ジュッポン」の読みが優勢かと思います。そこで私の質問は「ひらがな表記」としてどう落ち着かせるか、ということでした。

 現代日本語の仮名遣いは必ずしも純粋な表音式仮名遣いではない、というのが私の認識で、助詞の「は」「へ」などだけでなく、実際の発音と表記にずれがあるのは言語の歴史的性格上むしろ自然ではないだろうか、と考えています。現代日本人に身近な外国語である英語を見ると、この点で日本語は何と論理的な表記を持っているかとさえ気付かされます。②については、言葉と結びついている文化・慣習への興味です。

 

⑲「二十日」「二十歳」についての報告(2)


 私の「二十」についての興味は≪「二十日」「二十歳」に見られるように11以上で20だけが現在でも和語が普通に使われていることに何か文化的・慣習的理由があるのかもしれない≫ということでした。日本語学習者に言葉の背景にある日本の文化・慣習を説明することが彼らにとって深く日本語に触れることになる、と思うからです。日本にいる国語・日本語の専門家にも尋ねてみましたが、まだ返答はありません。

「はつか」に関して私が注目しているのは、例えば「二十日恵比寿」「二十日灸」「二十日正月」「二十日正月」「二十日月」「二十日団子」「二十日盆」「二十日宵闇」などの陰暦二十日にまつわる表現です。つまり、日本では古来「二十日」が重要な意味を持っているのかもしれない、ということです。「はたち」に関しては上記の「二十日の重要性の影響」に加えて更に、『伊勢物語』(九)の「比叡の山を二十ばかり…」と『源氏物語』(宿木)の「年は二十ばかりに…」のくだりの内容が気になっていますが、海外にいる身で今、手許にこれらの内容を確かめる本がありません。

「はたち」という読みが「事件・事故の時のニュースで読まれない」という
NHKデスク氏の言と、現行の日本の成年が二十歳であることと併せて、「二十歳」に関しての私の推測は、「はたち」という読みには何らかの「祝い」の意味が絡んでいるのかもしれない、ということです。それで『伊勢』と『源氏』の関係箇所を確かめたいと思っているのです。これらは飽くまでも私の推測の域を出ていませんから、何かおわかりの方はお知らせ下さい。

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