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<連載> ガラタ橋に陽が落ちる~旅の残像
イスタンブール4


日本がバブル絶頂期を迎えようとしていた時期、私は日本を出た。
母は、昭和天皇の崩御を報じた新聞記事を、ヨーロッパの旅先まで送ってくれた。日本では元号が昭和から平成に変わり、世界ではベルリンの壁が崩壊した。ソビエト連邦が崩れ去り、東西の冷戦が終わりを告げるころ、永遠に続くかのように思われた日本の好景気、バブルも崩壊の兆しが見えてきた。思えば、世界の動乱期に私は日本を後にしていた。
まずはスペインに入り、そこからメキシコへ移動した。目的は南米に足を踏み入れることだった。足慣らしに、と東西ヨーロッパを巡り歩き、アメリカ・カナダをグレイハウンドのバスで回ってから、南米に足を踏み入れた。
こんな時代背景の旅の残像を、文字に託した。その残像たちが動き出し、一曲の協奏曲が奏でられればいい、と思っている。これは、旅の「残像」の短編集である

目次 (タイトルをクリックすると該当の記事に跳びます)
1 グラシャス
2 ヘスス少年のこと
3 ようこそフリアカへ
4 アグアス・カリエンテスから
5 ラパスに雹(ひょう)が降る
6 メキシコのドン・キホーテ
7 サンティアゴの長い夜
8 アスンシオンの休日
9  雨のカーニバル
10  ウスアイアのピザ
11  ノリエガ将軍によろしく(1)
12  ノリエガ将軍によろしく (2)
13  ニューヨークのクリスマス
14  アウシュヴィッツの記憶
15  ガラタ橋に陽が落ちる

1 グラシャス

リマの商店街の一角にある、小ぢんまりとした定食屋に私はよく行った。1ドル足らずで、食べきれないほどの量が出された。

慢性的なインフレで地元の人々の暮らしは逼迫していた。私の昼食は質素なものだったが、それでも、通路に面した私のテーブルには、幾つかの羨望の眼差しが注がれた。

その日、私は食が進まず、定食を半分以上も残してしまった。コーヒーを飲み、勘定を払おうとして立った、その時である。
 
「それ、食べないのですか?」という弱々しいスペイン語が私の耳に入って来た。いつの間にか、私のすぐ横にほっそりとした青年が立っていた。思わず、その青年の足元から頭の先まで目を移してしまった。ごく普通のペルーの青年である。ズボンにはきちんとプレスの線が入っていた。南米を一人旅していた私より、よほど小ざっぱりとした服装だった。

「欲しいと言っているよ」店の人が私を促した。
「ええ、いいですよ」私は青年のほうを見ないで言った。

すると青年は、遠慮がちに私の食べ残した野菜炒めをライスの皿に移し、私の使ったフォークとナイフで、それをゆっくりと掻き回した。
そして、ライスと野菜炒めがほどよく混ざったところで、それをおもむろに口に入れ始めた。千年の至福を味わうように。
私も青年も立ったまま、その特別な時間を共有していた。

私は、我に返ったように、ぎくしゃくとした動きで勘定を払った。そして定食屋を出るために、青年の横の狭い通路を気まずい感じで通り抜けた。
その時、私の残飯を立ちながら食べ続けていた青年がわずかにフォークを持つ手を止めた。

私の背後から、幽かに「グラシャス(ありがとう)」という声が聞こえた。
更新日:2013-06-09 01:08:06

2 ヘスス少年のこと

小さなレストランで食事をしているとき、いつのまにか、一人の少年のことを思い出していた。ペルーのクスコで出会ったヘスス少年のことである。彼との約束を果たせなかったのが、今でも心残りだ。

この絵葉書売りの少年は、十二、三歳と思われた。クスコの全貌が見渡せる丘に、私を案内してくれると言う。絵に描いたような青空の中、少年は急勾配を早足で先導する。朝の日差しだが、私の額からはすぐに汗が吹き出した。中腹まで登った時、少年と私は腰を下ろし、眼下を見渡した。

日曜市のテントが見え、その周りは田園が広がるばかりである。クスコの全景は見られなかったが、私たちはそこから下ることにした。急な坂を下りながら、私は少年と短い会話を交わした。

「学校には行ってるの?」
「行ってる。でも仕事もしなくちゃ」
「絵葉書はたくさん売れる?」
「少し。でも今日は日曜市にたくさん人が来るから、売っていく」

ペルーの大人たちは現実の厳しさをいやというほど思い知らされ、希望を捨てたかに見える。だが、子供たちは実に働き者だ。自分が働かなければ、その日の食事にさえありつけないのだから。

「案内してくれたお礼に今日の昼食をご馳走するよ。今朝待ち合わせた場所で一時に待っているからね」
日曜市の人ごみに消えていく少年に、私はそう叫んで乗り合いトラックの荷台に乗り込んだ。
「わかった」
少年は大きく手を振った。

町の中心、セントロへ向かうそのトラックは、途中、タイヤがパンクし、私は小雨の降る中、次のトラックを長い時間待たなければならなかった。

セントロにやっと着いた時は、もう約束の時間はとっくに過ぎていた。私は待ち合わせ場所の小さな広場とその近くのレストランの前を、何度も往復して少年を探した。もう明日はボリビアへ発つ。私は思い足取りでホテルに戻った。

あれから数年が経ち、私は暖かいスープの前にいる。ヘスス少年は、どうしているだろうか。その神々しい名前と共に、忘れ難い思い出である。
ヘスス(Jesus)は救世主イエスの名だった。
更新日:2013-06-10 13:56:17

3 ようこそフリアカへ

朝八時半、クスコからプーノへ抜けるはずの列車に、私は飛び乗った。
幾つもの駅を数え、いつの間にか夕闇に包まれ、眠気に襲われ始めた頃から車内の明かりは点いたり消えたりしていた。それが、フリアカの駅に着く頃には完全に消えていた。前に座席の乗客に訊いたら、もう午後九時を廻っていた。私の腕時計はバッグの中にしまってある。

車内は人影がうごめくだけの暗闇である。
「プーノ行きは乗り換えだ」
という声を聞いて、私はバッグを肩に掛けて立ち上がり、網棚のリュックを下ろそうとした。リュックは網棚にしっかり括り付けられていた。前の席の乗客が親切にもやってくれたことだ。

暗闇の中で目を凝らして紐をほどき、リュックを下ろそうとした、その瞬間、一人の男が私に抱きついてきた。右肩に掛けていたバッグが引っ張られたのを感じ、私はバッグに手をやった。軽くなったそれは横をコの字型に切り裂かれ、中の貴重品入れがなくなっていた。

私は抱きついてきた男の首の根を掴まえて、
「泥棒だ!」
と大声で繰り返した。やがて警官がやって来た。私と警官は男を連れて列車を降り、フリアカ駅の交番に行ったが、案の定、男は何も持っていなかった。私の貴重品入れは、この男の一味の手から手へ、あっという間に苦も無くリレーされていったのだろう。

主任らしい警官が、
「パスポートは戻ってくる」
と自信有り気に言った。果たして、間もなく一人の少年が私の貴重品入れを持って現れた。大人の人にここに持って行くように言われた、と言う。パスポートと身分証明書等は残っていたが、あとはきっちり抜き取られていた。駄賃をねだるその子を問い詰めても、らちの明かない事だった。トラベラーズチェックはほとんどリュックの中だったのが、せめてもの救いだった。旅は続けられる。

「ここは第三世界だということね。どうして日本からわざわざこんな所に来たの?」
婦人警官は責めるように私に言った。
「とにかく今晩中にプーノに行きたい」
私は一刻も早くフリアカを出たかった。交番の時計はすでに夜の十時を過ぎていた。

警官が手配してくれたタクシーは、しかし、出発してから五分も経たないうちに急停車した。パンクだと言う。フリアカに着く頃からすべてがうまく出来過ぎている。
列車内の停電、リュックを網棚に結びつけてくれた親切そうな前の席に乗客、警官と捕らえた男との芝居がかったやりとり、そして、深夜のひと気のない道でのパンク……

私はすぐに他のタクシーに乗り換えた。この時間は危険すぎる、と尻込みする運転手に頼み込み、ほとんど灯りのないジャリ道を真っ直ぐプーノ目指して走らせた。車は重い沈黙を乗せたまま、ひたすら闇を走り続けた。時折向こうから大型トラックが通り過ぎ、砂塵を舞い上がらせて行くだけだった。

プーノのホテルに無事着いたあと、私はベッドの上に身を投げ出し、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
更新日:2013-06-11 13:15:12

4 アグアス・カリエンテスから

クスコから鈍行の汽車で五時間ちょっとの所に、アグアス・カリエンテス(熱い水)という小さな村がある。その名の通り、日本人が泣いて喜ぶ熱い温泉がある。地元の人は皆ぬるいほうの温泉に入るので、私は露天の熱い湯を独り占めにして旅の疲れを癒した。

ここから線路沿いに少し歩くと、世界遺産マチュピチュのインカ遺跡のある山に着く。初日はあいにくの雨で、遺跡の入り口まで来て諦めなければならなかった。土砂降りになり、山肌が危険な状態だったのだ。

宿に戻り、小降りになってから、又あの熱い温泉に入りに行った。宿から温泉場までは、つづら折りの上り坂をしばらく歩かなければならない。わざわざ雨の中を露天の温泉に入りに来るのは私ぐらいなもので、湯場の管理人も首を傾げていた。雨の中の温泉もこたえられない。

執念とは恐ろしいもので、海外にいて、そこに温泉があると聞くと、私はとにかく行ってみることにしている。東ヨーロッパでは、ハンガリーのブダペストで偶然見つけた温泉が素晴らしかった。銭湯のような感じで、温度別に幾つもの広い湯舟に分かれていて、ふんどしを兼ねるタオルを貸してくれる。こんないい温泉には入ると、それだけでその国が好きになってしまう。が、期待外れもないわけではない。

たしかメキシコだったと思うが、温泉があると聞いて、いそいそと行ってみると、そこはまるで強制収容所の風呂場のようだった。暗いコンクリート壁の個室に通され、苔まで生えているその湯場には冷たい水がよどんでいるだけだった。冷泉だったのである。

さて、アグアス・カリエンテスの宿でもう一泊し、翌朝早くマチュピチュヘ行った。雨はすっかり上がっていた。山の上に着いたとき、霧の中から不意に現れる、いにしえのインカの遺跡を目の当たりにして、人は息をのまざるを得ない。私は時間を忘れて、飽くことなく遺跡の中を見て歩いた。
 
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その日の午後、例の温泉でもう一風呂浴びてから、クスコ行きの汽車に乗った。プリメラ・クラセ(一等席)とは名ばかりで、すでに座席はなかった。

車内は各駅ごとに混んできたが、地元の人たちの飾らない会話が耳を楽しませてくれた。私は、言わば温泉付きのインカ遺跡を堪能したわけで、気分の悪いはずはなかった。

オジャンタイタンボもとっくに過ぎた辺りで、乗客たちも疲れてきたのか、時折り車内の会話も途切れるようになった。立っていた者は荷物を椅子代わりにして座りだした。

そのうち、「チノ、チノ」という囁きが私の耳に入って来た。私を横目で指しながら言っているのである。またか、と思ったが、その時は別に気にならなかった。

ところが、もう一度その囁きが聞こえた時、私は妙にいらいらしてきているのが自分でも分かった。思わず、その声のほうを向いて、「日本人だよ」と口から出てしまった。こんなことにいちいち反応する自分ではないはずなのに。

中国は日本の父であり母である。その同じアジアの仲間に間違えられて腹を立てることもあるまい。と、自分に言い聞かせる方法も、この時の私にはまるで効果がなかった。自分の中に意外な衝動が膨らんでいた。

私から少し離れて立っていた数人の口から「チノ、チノ…」とまた聞こえてきたとき、一瞬、間をおいて、私は大きな声で怒鳴っていた。
「日本人だと言っているのが分からないのか!」
車両内の誰もが息を呑んで私を見つめた。

気まずい沈黙が流れる中、私はすぐそばの席に座っていた家族連れの男に促されて、自分のバッグの上に腰かけ、男の勧める小さなカップ一杯のビノ(ワイン)を飲み干した。

男は、私の肩に手を置いて、顔全体で私に悪戯っぽく目配せをした。
更新日:2013-06-14 14:26:50

5 ラパスに雹(ひょう)が降る

プーノでひいた風邪は、ボリビアのラパスに入ってからも抜け切れないでいた。
明日が新年というその日、私は穏やかな日差しに誘われてラパスの町を散歩し、昼食を摂るため手ごろなレストランに入った。標高三千メートルを超えるという土地柄もあり、コカの葉を浮かべたお茶は高山病対策として常飲されているらしい。定食を済ませたあと、地元の人に倣い私も注文してみた。風邪への効用も期待していたのだ。

その夜、私は急な坂道を下り、フォルクローレを聴かせてくれるペーニャに入った。薄暗い店内を案内されてテーブルに着いた私は、サングリアの入った細長いコップを傾けながら、ふと向かい側のソファに何やらうごめいているものに気を引かれた。誰かが横になっているらしい。その隣には夫婦と思われる若い二人がいた。日本人である。女性がソファに横たわっている人物に声を掛けた。「大丈夫?お父さん」

どうやら父と娘夫婦で観光旅行に来て、父親は高山病にやられたらしい。やがて客席が埋まっていき、国際色豊かな会話が飛び交う。好奇心と期待の入り混じった雰囲気の中で、演奏が始まった。こぢんまりとした店内では、客席に囲まれたわずかな空間がステージとなる。ソファの紳士は横になったままである。

ボリビア独特の衣装をまとったグループが、南米のフォルクローレの名曲を次から次へと憑かれたように演奏し続けた。そして、心地良い興奮の中で最初のメンバーが交代し、日本にも知られた国宝級チャランゴ奏者が紹介された。

すると、あの日本人の若夫婦が頓狂な声を挙げ、大袈裟に手をたたき出した。今まで死んだように横になって四人分の席を独り占めしていた老紳士もむっくりと身体を起こし、重そうなカメラを構えると、“ボリビアの至宝”目掛けてフラッシュを焚き始めた。思ったように撮れないらしく、さかんに首をひねりながら論紳士はフラッシュを焚き続けた。隣の若夫婦も、別のカメラで負けじと強烈な閃光を演奏者たちに浴びせていた。“ボリビアの至宝たち”は、無作法な光の攻撃に当惑しつつも見事な演奏を続けた。

しかし、他の客たちは、明らかに不快の念を顔に表していた。その日本人父子の席をにらみ付け、中には身体を伸ばして覗き込む人さえいた。ところが、当の父子は、周囲のそんな雰囲気など一向に気付かないようだ。

やがて演奏が終了した。この間、日本人父子は少なくとも三十回以上はフラッシュを焚き、一方、他の客席からは演奏の合間に二、三度遠慮がちにシャッターの音がしただけだった。私は、素朴で質の高い演奏を堪能はしたものの、心のどこかに憮然とした、やりきれない気持ちを抱いたまま席を立った。

店を出ると夜空に暗雲が立ち込め、ポツリポツリと降り出した。私は急な坂道を走るようにして上り、ホテルの部屋に戻った。
その直後である。もの凄い音が天井に響いてきた。私は窓のカーテンを開け、暗いラパスの空を見た。雹(ひょう)である。大粒の雹が容赦なくラパスの町を叩き付けていた。

あの坂道に小さな敷物を広げ、リャマの子のミイラを売っていたインディオのおばさんは、どこかに避難できただろうか。路上でミカン箱に座って店番をしていた子供たちは、どうしただろうか。トタン屋根を激しく打ち鳴らし、道という道を穿(うが)ち尽くさんとする白い雹の突き刺さる闇を覗きながら、私は、あの日本人父子が高価なカメラを庇(かば)い、雹にめった打ちにされているような気がした。

やがて雹が降り止み、嘘のように黒雲が消えていった。私は窓を開け、冷たく薄い空気を胸に入れた。
澄み渡った夜空に、新年を祝う花火があちこちから上がり始めた。
更新日:2013-06-16 09:28:13

6 メキシコのドン・キホーテ

メキシコは独特である。その顔かたちの古代性、その食べ物の強烈性、その貧富の差の激しさ。メキシコはどこにも似ていない。マドリードで覚えてきたスペイン語はメキシコではたびたび直される。

メキシコ自治大学から紹介された私の当分の寝床は、セントロ、市の中心から離れた閑静な住宅地にあった。石畳が敷き詰められているこの一帯は、ときおり犬が吠えるぐらいで、昼でも深閑としている。お屋敷のような住宅に連綿と続く大仰な高塀は、メキシコの貧富の差を象徴している。この地域を一歩出れば、素足で走り回っている子供たちにさえ出会う。

私の部屋は、このコローニャの一角を占める邸宅の一室である。年齢不詳の女主人、お手伝いとその娘、屋根裏の小部屋にいる下働きのキューバ人、それに部屋を借りているメキシコとフランスの女性二人と新人の私、これがこの邸宅の住人ということになる。

とにかく広い屋敷である。ある日、いつもより少し遅く帰って自分の部屋に入ってみると、椅子が二脚ともない。そう言えば、手洗いに出入りする人が何人かいるので客が来ているのだろう、と思った。

そのうち、部屋の前の廊下が人声でいっぱいになった。廊下でパーティを開いているらしい。宴の終わった後で女主人に訊いてみると、客は八十人は来ていたと言う。ホームパーティに八十人はいくら何でも多すぎる。しかし、とにかく信じられないほどの人数が階下の大広間にいたことは確かだ。

その大広間は、ちらっと覗いたことはあるが、中に入ったことはない。そこはきらめくばかりの装飾品が置かれた別世界であった。
一体この女主人は何者なのだろうか。屋敷の中、いたる所に若き日の彼女を描いた絵や彫像が飾られている。

門の錠を開け、植え込みの間のなだらかな石段を下っていくと、地階の入り口がある。そこから出入りするように、女主人は私に言った。
私に宛(あて)がわれた部屋は二階に当たるのだろう。年季の入った木製の階段にもカーペットが敷かれ、夜中に帰ってきても他の住人の耳を煩わす心配はない。

ある夜、かなり遅く帰ってきた私は、真っ暗な邸内の灯りの消えた階段を手摺りを頼りに上っていった。灯りのスイッチの在り場所を探ったが見つからなかった。

少しずつ目が慣れてきて、最後の階段を段を上り切ったとき、私の部屋までの僅かな距離の廊下が更に暗い層になっているのを見た。壁伝いに手探りで歩いているうちに、一瞬、空(くう)を掴み、その手は棒のようなものに触った。たちまち、遠慮のない乾いた音が暗闇の中で響き渡った。

目を凝らすと、闇の中でドン・キホーテが拳を握っていた。廊下の飾り棚に高さ五十センチほどの木製のドン・キホーテが置かれていて、その拳に握られていた槍に私の指が触れて、廊下に落としてしまったのだ。

サンチョ・パンサを引き連れ、痩せ馬ロシナンテに跨ったその男は、空の拳を握ったまま憮然としていた。私は足元に転がっていた槍を拾い上げ、その男の拳に差し込んでやった。

翌朝、私はその男が逆さに槍を握って、尚も憮然とした顔をしているのを見た。この屋敷の屋根裏の部屋に住む下働きのキューバ人はこの像を指差し、
「君はメキシコのドン・キホーテだね」と私に片目をつぶってみせて言った。
何の手づるもなく、単身で、かくも遠隔の地に来た日本人に呆れたのである。

私の日本での教師仲間にドンちゃんと呼ばれる先輩がいた。若い時は相当思い切った言動があったらしく、ドン・キホーテから名付けられたと言う。五十を超えてからは大分枯れてきて、生徒を叱った後などは、持病の心臓を押さえていた。

そのドンちゃんが、私の送別会の日、少し早めに会場に来ていた私を呼び止め、
「思い切ったなあ。スペインだなんて…」しみじみと夢見るように言った。
私は長年勤めてきた高校教師に区切りを付け、二つ目の人生を探しにマドリードに行くことを決めたのだ。

その頃、スペインは日本ではまだ得体の知れない辺境の地のイメージしか無かった。全くただ自分の人生観から決めたことなので、私の突然のスペイン行きは同僚たちにとっては理解に苦しむことだったに違いない。

スペインからここメキシコに来た東洋のドン・キホーテは、しかし、まるでだらしがない。自分だけは大丈夫だと思っていたメキシコ名物の下痢に見舞われたのだ。ここの強烈な下痢は、メキシコ訪問者の避けられない洗礼らしい。

これに対抗できる強烈な薬、ロモティルを飲みつつ、屋敷のその広さ八畳はあるトイレの隅にぽつんと備えてあった便器に、一日に何度もお世話になったものである。
更新日:2013-06-19 05:37:23

7 サンティアゴの長い夜

メキシコを発つ際、「住むならチリがいい」と頻りにチリ人の国民性を褒めていた人がいた。チリでなら金銭を渡すとき、掌にそれを無造作に広げて差し出しても決して余計にはとらないだろう、と言うのだ。それが本当なら、しばらくチリに住むのもいいかもしれない。結構きつい旅を続けて来たせいか、私はかなり疑い深くなっていたからだ。人を丸ごと信じる日々があってもいい。
 
アルゼンチンのサン・カルロス・デ・バリロチェからバスでチリのプエルト・モンまで抜け、そこからサンティアゴ行きの夜行バスに乗った。このバスは乗客数を十数名に限り、車内のサービスを飛行機並みにしたサロン・カマと呼ばれる特別仕立てのものだった。リクラインシートはほぼ水平にまでなり、バスであることを忘れさせてくれるほど揺れがなかった。チリの細長い地形をひたすら真っ直ぐ北上して、翌朝十時ごろ、サンティアゴに着いた。

こうして気持ちの良い都入りをしたせいもあってか、チリ人の印象は私の期待を裏切らなかった。人懐っこさは他の中南米の人々と変わりはないが、その一方、静かに何かに耐えようとしている不思議な魅力も感じられた。

その頃のチリは、まだピノチェトの軍政下だった。私はガルシア・マルケスの本を一冊リュックの底に入れて、チリ入りした。これは、チリの反軍政派の映画監督が戒厳令下の自国に潜入したときの体験をマルケスが聞き書きしたものだった。チリ入国の際、この本が見つかるかもしれない、ということが私を妙にわくわくさせた。

だが、すでにチリ国内ではピノチェト政権は幕を閉じようとしていた。民政化への準備が着々と進められていたのだ。時代の流れに抗しきれず、さすがの独裁者も第一線から身を引く決意をしたようだ。

ある夜、私はアウマダ通りを散歩してみた。もう十時を過ぎていた。
この通りは言わば地元の人々の憩いの場所で、フォルクローレのグループの歌声が響き、露店商人たちが道に風呂敷にわずかの品物を並べていて、通行人の目と耳を楽しませてくれる。一見穏やかに見えるこの風景も、よく耳を澄まし、目を凝らしてみると、そこに緊迫した何かが感じ取られてくる。

チリの紺碧の夜空を突き抜けるようなケーナやサンポ―ニャの澄んだ音色が途切れた時、人々の激しい議論が聞こえてくる。決して声高ではないが、激しい調子で政情を論じていたのである。

露店商人たちが売っている品物も、社会主義政権時代のアジェンデやキューバの革命の英雄チェ・ゲバラの肖像画、反体制歌手でクーデターの際捕らえられ殺されたビクトル・ハラのカセットなどが並び、チリの民政化への流れはもはや抗しがたいことが、私のようなよそ者にも見て取れた。

露天を冷やかしながらしばらくアウマダ通りを歩いていると、遥か向こうの暗闇から鋭い声が聞こえた。すると、それを合図に露店商人たちの様子が一変した。
彼らは口々に「パサンド、パサンド!」(来たぞ、来たぞ)と仲間に伝えながら、広げていた品物を素早く風呂敷ごとくるみ、通りのわきに寄った。アウマダ通りは、あっという間に深い沈黙の闇に姿を変え、誰もが息を殺して事態を見守った。

最初の合図は、警察当局の取り締まりを仲間に知らせたものだった。結局、何事もなく、露天商人たちは再び風呂敷を広げ、品物も元のとおり一つひとつ丁寧に並べ直した。フォルクローレの演奏が再開され、政治談議をする人々の輪がいつの間にか又できていた。

私は、明けるのをためらっているかのようなサンティアゴの深い夜空を見上げた。仮に民政に移管されても、その大統領はピノチェト将軍の傀儡(かいらい)に過ぎない、という噂も耳に入ってきている。私は、この国の人々の、何かに耐えているような表情の意味を、ぼんやりと分かりかけていた。

それから一年も経たないうちにヨーロッパではベルリンの壁が無くなり、ソビエト連邦の崩壊が始まった。チリの人々は社会主義への夢を砕かれたかもしれない。権力者による国の私物化と貧困に苦しめられ続けて来た中南米の人々は、これからどんな夢を見ることが許されるのだろうか。

私は、あの夜のサンティアゴの深い闇を今でも不意に思い出すことがある。

更新日:2013-06-24 00:04:21

8 アスンシオンの休日

三日も四十度を超える日が続き、その日も朝からうんざりするような暑さだった。

パラグアイに入ってから最初の日曜日だった。私は遅い朝食のあと、宿の前のベンチに上半身裸で座っていた。つい数日前までいた隣国のボリビアと何という違いだろう。ボリビアでは氷までも降ったのだ。ここでは誰もが日陰を探す。

 

 ちょうど木陰になり、老いぼれた雌犬さえも、この古びた赤ベンチの下を休息の場としているらしい。その黒い雌犬は、左の一番前の乳首が半ば食いちぎられ、赤く垂れ下がっている。おぼつかない足取りで私の足元をすり抜け、ベンチの下に潜り込んだきり、動こうとしない。

 

 風がない。一向に読み進まない古本で扇いでみたが、生温かい何かが私の鼻先をひと撫でしただけだ。私は地元の人がそうするように、ボンビージャという管で冷たいマテ茶を吸いながら、終日この赤いベンチで時間を潰そうと決めていた。

 

 涼を求めるにも、まったくの内陸の、ここパラグアイには川と湖しかない。昨日その湖へ行ってみたが、澱んだ水にひととき身体を浸すために遠くまで車を飛ばさなければならない。明日にはもうパラグアイを出てブラジルのフォス・ド・イグアスに行くつもりだ。その規模世界一と言うイグアスの滝で涼をとろう。

 

 赤ベンチの前はタクシー乗り場になっている。だが、客の数よりも休憩しに来るタクシーの数のほうが多いのは明らかだ。運転手たちは、一点の雲も見当たらない空を恨めし気に見上げて、もう一つのベンチに腰を下ろした。

 

 やがて彼らは道路側に備えてある物入れの中からボンビージャを取り出して、マテ茶を回し飲みし始めた。

 

 うだるような暑さで、アスファルトの道路は歪んで見える。そこに灼(や)きつけるような日差しが反射している。その銀色に映える様子は、一瞬、雪道かと錯覚させる。今は一月で、日本ではちょうど真冬だ。

 

 大型トラックが目の前を通り過ぎ、私の視界の左隅に、道路の向こう側のカフェテリアから出て来た子供が映った。こちら側のベンチに座っている運転手たちに何やら合図をしている。右手に白い棒のような物を提げて、何か叫んでいる。どうやら、マテ茶用の氷を買いに行かされたようだ。

 

 その子供が白く光る道を小走りに渡って来たとき、私は、あっと思った。これと同じ光景をどこかで見たことがある……いや、あの子供がこの私だ。

 

 あの日、幼い私は、広い道を挟んで自分の家の反対側で遊んでいた。雪にまみれて遊んでいた私は、しかし、近所の大人たちの様子で、母に何か大変なことが起きたと直感した。

 

 遊びに使っていた氷柱(つらら)を片手に握ったまま、幼い私は白い息を吐きながらその銀色に輝く雪道を走って渡って行ったのだった。

 

 私が駆け付けたとき、母は家の近くの真新しい雪の上に仰向けに倒れていた。ひとときの休みを愛おしむように。いかにも気持ちよさそうに倒れていた。

 過労だった。女手ひとつで四人の子供を育ててきた戦争のような毎日から、いっときの休息をしたのだ。

 

私は、その子供が道を渡り終えるのを見届けてから、小さく吐息をついて、また古本を読み始めた。日暮れまでは、まだたっぷり時間がある。

更新日:2013-07-02 11:30:29


9  雨のカーニバル

一旦リオ・デ・ジャネイロでカーニバルの観覧席の切符を買って、カーニバルの日まで一か月ほどアルゼンチンなどを廻っていた私は、再びブラジル、リオに入り、楽しみにしていたリオのカーニバルの会場にいた。

 

カーニバルの休憩中に雨が降り出してきて、少し大粒の雨になった。観覧席の石段に腰掛けていた観客たちは、傘を広げたり、雨合羽を着たり、ビニールを被ったりして、それぞれ要領よく雨を防いでいた。私も、隣に座っていた見知らぬ家族にビニールを被せてもらい、カーニバルの次の出し物を待った。

 

そのうち小降りになり、カーニバルの行進が再開すると、観客たちは次々と傘を畳み始めた。それでもまだ傘を広げている席に人たちは、後ろの席から

「見えないぞ」という抗議の紙つぶてが投げつけられる。飛んで来る物は、紙コップが多いが、とにかく最初のうちは冗談を交えての攻撃だった。

 

 だが、カーニバルの熱狂も手伝って、攻撃はたちまちエスカレートしていった。ユーモラスな掛け声は毒づいた非難に変わり、なかにはミカンの皮を投げつける人さえいた。

私のすぐ前で優雅に踊っていた奥さんも(人々はほとんど踊りながらカーニバルを見るのだ)、踊りながら周りに落ちている紙くずを投げ始めた。その楚々とした顔に笑みを浮かべたまま。

 

 とうとう婦人用の傘一つだけ残して、前の席は傘が見えなくなった。その一つの傘めがけて、次々と非難の声と物が投げつけられた。やがて、最後まで頑張って傘を差し続けているその年配の婦人が、傘の横から指でOKサインを出したので、周りからも一斉に拍手と歓声が湧き上がった。

 

 しかし、そのOKサインは、まだ傘を畳まない、という意思表示だった。怒った後ろの人々は、再び紙コップ等をその傘めがけて集中攻撃した。終いには、誰かが水やビールの入った紙コップをぶつけたものだから、その年配の婦人は傘を上げ、キッと後ろを睨みつけて、依然として傘を広げたまま頑張った。

 

 そのうち本当に小降りになり、非難の声と紙つぶての攻撃に降参した格好で、彼女もようやく傘を閉じた。

 

 強力なリズムの中で、カーニバルの行進は延々と続く、人々は踊り続け、夜の帳(とばり)もここだけには降りないようだ。人々は、一年間溜めておいたエネルギーのすべてをこの日に燃焼し尽くす。

 

 地元の人が言うリオ・デ・ジャネイロの「リオ」は、よそ者が聞くと、ほとんど「ヒーオ」としか聞こえない。ここでのRの発音は、喉笛を鳴らす感じなのだ。カーニバルが終われば、また冷たい雨が体の芯まで沁みる現実に戻らなければならない。

 

夢から覚めるのを惜しむように、「ヒーオ、ヒーオ」と祭りは翌朝まで続く。


更新日:2013-07-15 12:19:12

10  ウスアイアのピザ

リオ・デ・ジャネイロでカーニバルの切符を運良く手に入れた後、まず、ブエノス・アイレスへ飛んだ。リオのカーニバル当日まで一か月近くあったので、その間にアルゼンチンとチリを廻っておくことにした。

 

 ブエノス・アイレスではアルゼンチン国内の航空周遊券を買っておいた。

南へ、南の果てへ……とにかく世界最南端の町だと言うウスアイアまでは行ってみよう、と決めていた。

 

 ウスアイアへ飛ぶ前夜は宿で南米の特大ゴキブリを二匹殺してから床に入り、案の定、夢見が悪かった。翌朝、激しい雨音で目を覚ましたときは、五時を過ぎたばかりだった。空港行きのバス停まで、カナダのナイアガラの滝で使ったカッパを着込んで、土砂降りの中、まだ明け切らない暗い道を歩いて行った。今朝の夢の続きのようだった。

 

 この日、一月二十七日、ブエノス・アイレスの空港から飛び、リオ・ガジェゴスを経てマゼラン海峡を越え、昼過ぎにフエゴ島のウスアイアに着いた。こちらでは真夏だが、小雨が吹きつけ、さすがに寒かった。ここから南極大陸までは、ほんの一跨ぎなのだ。ボリビアで買ったアルパカのセーターをリュックの底から引っ張り出した。

 

 目を上げると、雪を頂いた山々が悠然と私を見下ろしていた。見る間に頭上の雲が吹き払われ、青空が広がっていった。抜けるような青の色に浸りながら、町への道をゆっくりと歩いて行った。

 

 インフォメーションで紹介してもらった民宿にリュックを置き、町を散歩してみた。サン・マルティン通りだけには観光客向けに店が並んでいたが、やはり地の果ての町らしく、閑散としていた。

 

 宿に戻る前に小さなパン屋に寄り、ピザを注文した。売り子の一人がそれを持ち帰り用に包んで私に渡したとき、もう一人の売り子が何かお喋りでも始めようとしたのか、秤(はかり)の上に手を置き、それにもたれ掛かるようにこちらの方に顔を向けた。

その一瞬あと、秤の下のガラスケースが割れて、それは見事なほど粉々にパンやピザの上に飛び散った。私のピザ以外はすべての商品がガラスの破片にまみれてしまった。

 

 宿への帰途、命拾いしたピザを抱きながら、今見たばかりのガラスの雨の中を歩いているような気がした。今回はピザだったが、こういう事は私のこれまでの旅の中で度々あった。

 

 メキシコの地下鉄を降りようとしたときの事だった。

私と入れ違いに地下鉄に乗ろうとした人の担いでいたザックの鉤(かぎ)ホックが私のベルト通しに引っ掛かり、車両の昇降口を挟んで互いに引っ張り合う形になった。今にもドアが閉まり、発車しようとしていた。

 そのとき、乗客の一人が大声で運転席へ合図し、閉まりかけていたドアに割って入り、私のベルト通しに絡んでいた鉤ホックを外してくれた。すべて一瞬の事だった。私は命を救われたのである。その名も知れぬ異国の人に。

 

 瞬時にこういう行動のできる、真に驚嘆すべき人物が、やがて何事もなかったように地下鉄を降り、また慎(つつ)ましい淡々とした生活に戻っていくのだろう。

 自分で知らないうちに危険に遭い、気づかぬうちに命を拾われていた、というようなことは、恐らくこれまでの私の半生の中で度々あったのだろう。

生かされている、という思いを抱かずに、どうしていられようか。

 

 米カリフォルニア州で大きな地震があった時、私はアメリカ合衆国とカナダをバスだけで一か月ちょっとかけて廻って見て、メキシコに戻った直後だった。

 また、ブラジルのイグアスの滝で渡る予定でいた橋が私が着く数日前に壊れ、数人が滝壺に呑(の)まれた、という事も耳にした。そのほか、後で思えば冷や汗が出る事が少なくなかった。

 

 単に運が良いだけなのか、旅の中で磨いてきた直観力が無意識のうちに最良の選択をしてきたお蔭なのか。いずれにしても、私はこうして生きながらえている。ウスアイアで買ったこのピザはガラスの雨から運良く免れた。

 

 私は宿に戻り、しみったれの女主人にガス代を払って、その命拾いしたピザを温め、断食明けの坊主のように、それを口に押し込んだ。


更新日:2013-07-21 02:09:31

11  ノリエガ将軍によろしく (1)

ブエノス・アイレスからリマ空港に着いたのは、夜中の二時過ぎだった。

三か月前にここリマから始めた南米の旅も、いよいよあとはメキシコに戻るだけとなった。さっそく、メキシコへの復路航空券を持ってインフォメーションに行ってみた。もっと早い便があったら換えようと、ふと思いついたからである。

 

メキシコを出発する際、「中南米の一人旅は五体満足では帰れないよ」という餞別の言葉を貰い、私も、この旅は無事では済まないかも知れない、と心していた。一瞬の判断力が生死をも分ける…これがそれまでの旅で得た私の教訓である。そして、その判断の拠り所は、理屈ではなく直観である。直観を最優先させること、これを貫き通して、ともかくここまで五体満足で辿り着いたのである。

 

「あなたの持っている航空券のパナマ航空事務所はノリエガ問題で閉鎖されています」インフォメーション嬢は、私の顔を覗き込んで気の毒そうに言った。

 パナマのノリエガ将軍がアメリカ合衆国によって逮捕されたというニュースは、私もブラジルで耳にしていた。日本での報道は知る由も無かったが、中南米の人々の反米感情は根強いものがある。ただでさえ政情の不安定な中南米は、これからどう動いて行くのだろうか。

 

 私は、コロンビアのノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスが「北アメリカ人(彼らはアメリカ合衆国人をこう呼ぶ)は僭越である。アメリカとは彼らの国を指す語ではないのだ」とアメリカ合衆国の大国意識を皮肉った言葉を思い出していた。

 

ともあれ、空港のアエロ・パナマのオフィスが開くまで待たなければならない。私は、空港ロビーのソファで眠るともなく、新聞に目を通すともなく、それからの七時間余りを潰さなければならなかった。

 

午前十時過ぎ、ようやくオフィスが開いた。なんとか誤魔化して私の航空券を無効にしようとする担当者の態度は、私を苛々させた。今回の南米の旅ですっかり身につけた方法を採った。すなわち、奥でふんぞり返っていた責任者を出させ、一歩も引かない姿勢で交渉した。とうとう私の航空券はアエロ・ペルーの便へ変更可能となった。私は責任者に変更承諾の一筆を書かせ、それを持ってミラフローレス地区にあるアエロ・パナマのペルー本部オフィスに変更手続きに向かった。当然のことだが、そこまでのタクシー代の支払いはアエロ・パナマ本部で出す、という確認も運転手と共にしておいた。

 

タクシーは殺伐としたリマの乾いた街を突っ走り、ミラフローレス地区のオフィスに着いた。私は持って来たメモを女事務員に渡し、航空券の変更とここまでのタクシー代の件を説明した。女事務員は無表情に航空券の書き直しをした。しかし、「タクシー代は払えない」と木で鼻を括ったように言った。

 

「何なら、このメモの人物に電話をして確かめてくれ。彼は確かにそう約束したんだ」私の言葉に、そばでハラハラしながら見守っていた気弱そうな運転手も、何度も小さく頷(うなず)いた。女事務員は奥の部屋に入ったまま、しばらく戻って来なかった。

 

私は何気なく椅子をドアの方へ向けて座り直した。小さなオフィスで、ドアと私との間は二メートルとなかった。そのドアを半ば体で開けるようにして、警備員が銃を構えて立っていた。引き金に指を掛けており、いつでも撃てる態勢だ。銃口は下に向けてはいるが、ほんの少し持ち上げれば、私の右足の親指に照準がぴたりと合うだろう。私は視線を警備員の顔に移した。あのノリエガ将軍にどことなく似ていると思った。(続く)

 


更新日:2013-07-28 01:44:38

12  ノリエガ将軍によろしく (2)

パナマのノリエガ将軍逮捕でアエロ・パナマの航空券を持っていた私は、その変更を余儀なくされ、手続きのためにリマ空港からアエロ・パナマの本部オフィスまでタクシーを飛ばして来た。空港のアエロ・パナマの責任者の言質(げんち)を取り、この本部オフィスから支払われるはずのタクシー代を運転手とともに待っていたが、奥の部屋で誰かと相談していた女事務員は我々の前の席に着くなり、

「そんなお金はどこからも出て来ない」と言ったきり黙ってしまった。すると、いかにも気弱そうなその運転手は、もういいよ、という顔をして何も言わず外へ出て行ってしまった。万事休す。私も、銃を構えた警備員の脇を潜り抜けて外へ出た。

 

 運転手は心配そうに私を待っていた。そして、

「私が馬鹿だったんだよ」とポツリと言った。私は彼のタクシーに乗り込み、三か月前に利用したリンセ地区のホテルまで走ってもらった。彼は

「まったく、この国の奴らはどいつもこいつも恥知らずだ」と吐き捨てるように言った。私はタクシーを降りるときに、多めの料金を彼の手に握らせた。彼は、疲れ切った顔を見る見る紅潮させ、私の両手を握り日本式の礼を繰り返した。

 

 その三日後、午前四時発のメキシコ行きのアエロ・ペルーの便にようやく乗ることができた。これとて予定より三時間遅れである。だが、ホッとしたのも束の間であった。我々を乗せた飛行機は確かに滑走はしたが、地べたを這って元の位置に戻って来ただけなのである。乗客は詳しいことは聞かされないまま、またぞろぞろと控室に入り、そこで初めて事情を説明された。乗務員たちのストだと言う。つまり、客を乗せて出発させるところまで彼らは仕事をした、という組合戦術なのだろう。

 

 ストが解除されるまで、あるいは他の航空会社の便に変更されるまでホテルで待機しなければならなくなった。客たちは困った顔こそしたが、いきり立って騒ぐ者はいない。なんとも鷹揚(おうよう)なものである。私も日本を出てからこういう場数を踏んで来たせいか、かなり我慢強くなってはいたが、やはり日本人の性急さを思わざるを得ない。ラテン系に限らず、欧米の人々も他人の権利には頗(すこぶ)る寛大な態度を示す。

 

 約一週間、私は航空側の用意したホテルに缶詰めになり、ひたすらメキシコ行きの切符を手に入れるために航空側と連絡を取り、交渉する毎日を送った。下手に外へ出歩くと、その間に他の客に航空側との交渉権を取られてしまいかねなかった。おかげで私はホテルのホール付きのボーイにペルーの四方山話をたっぷりと聞く機会を得た。

 

 その頃ペルーでは大統領選挙が告示され、あちこちに候補者の大きなポスターが貼られていた。ボーイが外を指して

「ああいう連中も、もう姿を消すよ」と鼻をうごめかせて言った。路上で客を掴まえる両替屋たちも次の大統領によって綺麗に掃除されるだろう、と言うのだ。彼は次期大統領を作家のバルガス・ジョサ氏だと予想していた。日系のフジモリ氏は、この時点ではまだ泡沫候補の一人にすぎなかった。

 

 “優雅”で退屈なホテル軟禁生活から解放された日、今度こそ地上を離れた飛行機の中で私は、ノリエガ、ノリエガ、と呪文を唱えた。


更新日:2013-08-04 01:38:52

13  ニューヨークのクリスマス

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その年の十二月、スペイン、マドリードでの生活に一応の区切りをつけて、私はメキシコに向かった。メキシコ自治大学で研究生活に入るためである。途中、ニューヨークに立ち寄り、しばしの息抜きをするつもりでいた。折しも、ニューヨークの街はクリスマスツリーの灯りに映え、眩(まばゆ)いばかりであった。

 

 明日がイブという日、私はニューヨークをバスで廻る市内観光のツアーに個人参加してみた。ツアーバスの車内を見回すと、他は韓国の団体客らしい。日本人は私一人だった。やがて、初老の運転手が乗り込んで来て、ユーモアたっぷりの挨拶をした。典型的なアメリカの誇り高い紳士という印象だった。

 

 その紳士が観光絵葉書を両手にかざし、にこやかに宣伝し始めた。私も買うことにしたが、あいにく大きな額の紙幣しか持ち合わせていなかった。紳士は絵葉書セットを私に渡し、私の手からその紙幣を素早く彼に手に移し替えると、

「お釣りができたら渡すよ」

と言って、車内の他の客に売りに廻った。

 しばらくすると、紳士は私の座席の前に戻り、お釣りを数えて私の掌に返した…かと思うと、別の紙幣と取り替えた。まるで手品師のように、その行為を繰り返した。明らかに釣り銭を誤魔化そうとしていた。

 

 案の定、私の掌には不当な金額が残った。事は額の多少の問題ではなかった。車内では日本人が私一人であることに付け込んだ卑劣な行為であった。私はその“手品師”に釣り銭の額の不当性を訴えた。すると、“手品師”はアメリカ紳士の仮面をかなぐり捨てて、昂然と彼の正当性を言い返してきた。私と彼との押し問答の中、私の後ろの席にいた一人の若い韓国人女性が“手品師”に言った。

「残りのお釣りを渡しなさい。私の母がすべてを見ていました」

有無を言わせぬ、毅然とした物言いだった。彼女の母親が私の斜め後ろの座席で初めから全部見ていて、彼女に話したのだ。思いがけない彼女の気迫に気おされたのか、昂然としていた“手品師”もしぶしぶ残りの釣り銭を出した。

 

 ニューヨークの一日市内観光も終わりに近づいた頃、同じツアーメンバーの年配の韓国人男性が私に話しかけてきた。

「あのアメリカ人、悪い人だね。気をつけなければいけない。日本人、いい人多いよ」

日本語でぽつりぽつりと話し続けた。私は「ありがとう」を繰り返すばかりだった。

 

 私はマドリードの大学での討論形式の授業を思い出していた。その日のテーマは<人種差別>だった。私のような黄色人種も黒人もいる中でのスペイン語での討論だ。日本ならば、まず避けるテーマだろう。アフリカからの不法移民も含めて、ジプシー(近年、日本ではロマと呼ぶらしい)や有色人種の移民の多いスペインでは、包み隠さず最重要のテーマとして取り扱う。その授業の中で、「日本人には韓国人差別問題が存在していると聞いているが、どうなのか」というスイス人学生の質問に、私は歯切れの悪い説明しかできなかった。このことを思い出していたのだ。

 

 「日本人、いい人多いよ」

ツアーが終了し、バスを降りてからも、あの年配の韓国人男性の日本語が、私の頭を離れなかった。彼があの日本語を習得した事情が暗い歴史の産物なのか、は知る由も無い。だが、極東から来た黄色いアジア人同士が、世界のリーダーを気取る異国の地で無意識のうちに連帯し、傲慢な白い“手品師”にひとあわ吹かせた、という気持ちを私たちは共有していた。

 

 顔を上げると、いつのまにか陽は傾いていた。黄金色に輝くニューヨークの街には、刺すような冷たい風が吹いていた。私は前を向くと、煌(きら)びやかなイブのニューヨーク街を又ゆっくりと歩き始めた。
 

更新日:2013-08-11 18:39:50

14  アウシュヴィッツの記憶

ベルリンの壁がまだ厳然としてヨーロッパを東西に分けていたある年、七月の暑い日に、私はワルシャワからクラクフに着いた。

 

 クラクフ中央駅に着いた時には、夜の九時を廻っていた。取り敢えず今晩身体を休めるホテルを探した。幾つか当たってみたが、どこも苦室はないと言う。そうこうしているうちに十時半になってしまった。さてどうするか、やはり東ヨーロッパは予約なしでは難しいのかもしれない、と多少諦め気分になり始めていた。街の灯も一つ二つと消えてゆき、人影も見る間に少なくなっていった。

 

 当時のポーランドは東側の国々の例に漏れず、夜も十時半を過ぎれば街中と言えど閑散とし、僅かに最終のバスを待つ人影が見られるだけだった。

 もう一つ当たって駄目なら隣町へ行ってみよう、と思いつつ訪ねたホテルに運良く空室があった。さっそくホテルの受付嬢にオシフィエンチムまでのバスを確認した。オシフィエンチムはドイツ語名をアウシュヴィッツと言う。受付嬢は、日本人がたった一人でわざわざアウシュヴィッツを訪ねて来たのか、と半ば呆れ顔だった。

 

 翌朝、一時間ほどバスに揺られ、オシフィエンチムに入った。それから市内バスに乗り換えて、ようやくアウシュヴィッツの博物館、ムゼウム前に着いた。バスを降りた途端、にわか雨が降り始めた。暑さの中、私は恵みの雨を受けながら旧強制収容所の鉄門をゆっくりと入って行った。鉄門の上には、有名な「働けば自由になれる」というドイツ語が掲げられていた。

 捕虜たちの収容所として使われていた建物の幾つかが展示館となっていた。私は人の出入りの少ない棟から入って行った。

 

 強制収容されたユダヤ人やポーランド人たちが身体を横たえた蓆(むしろ)の寝床が延々と続いている棟。カーペットにするため収容所から切り取った髪の毛が山のように積まれている棟。収容者たちの遺品である靴、歯ブラシ、服などの日用品が展示されている棟。 生体実験に使ったという器具が置かれている棟。人間の身体から石鹸や灰皿などを作ったという機械が並べられている棟。すべてが無造作に生々しく残されている。

 

 そして、捕虜たちの顔写真が展示されている長い廊下を渡り、その突き当たりの部屋に足を踏み入れた。すると、そこには消耗し切った捕虜たちが声もなく整列していた…と、私には一瞬思えた。薄暗い部屋の中で白と青の縦縞模様の捕虜服がずらっと吊られて並べられていたのである。その時その部屋にいたのは、私一人だった。私の靴音だけが妙に響く沈黙の中で、私は微かに彼らの怨嗟の声を聞いていた。

 

 展示館を一通り見た後、ナチスがそこで貨車から捕虜たちを降ろしたという線路を跨ぎ、有刺鉄線で囲まれた収容所をもう一度振り返った。捕虜たちはこの線路脇で強制労働かガス室行きか選別された。人間の心の奥底に潜む暗くおぞましい何ものかに抗するように、私は収容所の上のもうすっかり晴れ上がった空に目を遣った。


更新日:2013-08-19 20:21:23

15  ガラタ橋に陽が落ちる

ガラタ橋に陽が落ちる 440pc D000826-R2-01-1_1

 そのとき、私はイスタンブールのガラタ橋を渡っていた。ボスポラス海峡の小さな入り江、ゴールデンホーンに架かっている弓なりの橋。新市街と旧市街を、人々はこの橋で行き来する。

 

私はガラタ地区の市場の雑踏を逃れ、新市街から旧市街へ、ゆっくりと足を運んでいた。地球をなぞるように弓なりになったその橋を、私は落ちてゆく夕陽に向かって歩いていた。振り返ると、モスクが暮れなずむ新市街を抱くようにしてそびえていた。私は再び夕陽に向かい、前に歩を進めようとした。

 

ふと目を遣ると、向こうからリヤカーがゆっくりと降りてきた。その弓なりの橋のなだらかな傾斜に甘えるように、長い影を前に落として、悠然とこちらに近づいて来る。

 

リヤカーの上には首がひとつ乗っていた。それは若い男の首で、沈もうとする夕陽の黄金色の光を背に、褐色に輝いていた。その首は、獣のような鋭い眼を周囲に向け、やがて微かに笑った。そして、リヤカーを押している男に何やら快活に話しかけた。私はもう一度確かめたが、やはりそれは一個の首で、その下は黒い布がわずかな肉塊を覆っていたが、四肢は無かった。

 

私とその首が擦れ違うまでは、ほんの瞬時だったはずだが、私はその首のすべてを見、同時にこの世のすべてを見た、と思った。私はそのまま橋の真ん中まで歩を進め、そこで足を止めた。

 

ここから先は弓なりの傾斜を下るだけである。振り返ってみたい衝動を辛うじて抑え、私はまた歩き始めた。振り返ることは許されないことだ、と思えた。夕陽に照らされた首の後ろ姿を見ることは、あの世を覗くことであり、その瞬間から私の両目は潰れてしまうに違いなかった。

 

ガラタ橋の残り半分を、私は沈みかけた夕陽に吸い込まれるように降りて行った。黄金の夕陽の中に溶けてゆく自分を感じながら、今見た首の残像を反芻(はんすう)していた。風邪を泳いでいた漆黒の髪……地獄の果てまで見尽くしてきた眼……言葉の無意味さを知り尽くした不敵な口元……そして、ただ存在するだけで世界の醜悪さを告発している、やや右に傾いた首。

 

その喉元に巻かれた黒い布は、その下の肉を隠してリヤカーの上に小さな塊をつくっていた。四肢は無くても、そこには生きるための最低限の器官が覆われていたはずだ。彼こそは神に選ばれた者なのか。

 

あの首はもう新市街に着いただろうか……赤紫の夕陽に染まった首が厳かにモスクに迎えられる情景を思い浮かべながら、私はようやく最後の一歩をガラタ橋から離して、旧市街に辿り着いた。

            *

イスタンブールは不思議な魅力に溢れていた。アジアとヨーロッパの接点であり、四世紀から東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルとしてビザンチン文明の中核を担った。そして、十六世紀には、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大州にまたがってその勢力をほしいままにしたオスマントルコの首都として君臨した。

ここは東洋でも西洋でもない。妖しい魅力に満ちたイスラム世界の入り口である。

 

トルコの旅から数年後、当時、ユーゴスラヴィアでボスニア・ヘルツェゴビナ戦争が泥沼化していた最中(さなか)に、私はこの短文をまとめた。それから更に数年経ち、同じユーゴスラヴィアで今度はコソボ戦争が出口を見出せないでいる中で、この文章がまた鮮明に浮かんで来たのである。意外にも、この心象文が実際に目にしたものを描きながら、民族浄化あるいは覇権主義への誘惑に抗しきれない現代社会に対する、私の遣り切れない心の陰翳が隠喩として翳を落としていることに気づかされた。

 

同時代のこうした戦争を耳にするたびに、私は欧米主導の価値観で進められて来たこの現代世界における日本の役割を、幾度か考えたことがある。進むべき方向を見失いつつあるこの時代に世界は苛立ち、新たな価値観を模索している。

かつてのイスタンブールとは立場を異にしているが、もはや東洋でも西洋でもない日本。徹底した平和主義と東西の架け橋として試みてきた日本の独自の歩みは、行き詰まりを見せている現代世界に進むべき道筋への重要な示唆を与えられるのではないか、という思いが私の中で日に日に確信を持ち始めている。


更新日:2013-08-28 23:44:46



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tag : 旅の残像 アルゼンチン ウスアイア メキシコ ニューヨーク アウシュヴィッツ トルコ ガラタ橋

 
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