2017/10
≪09  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31   11≫
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
 
<連載> 人生を3倍楽しむ方法 - なぜ日本を出ないのか
 人生を3倍楽しむ方法 表紙

人生は、何かを成し遂げようとするにはあまりにも短い。そして、人生を楽しむためには日本はあまりにも狭い。
一度きりの短い人生を充実させて楽しもうすれば、人間を幸福から遠ざける要素に満ちた日本というシステムから一旦外へ出ることが不可欠だ。渦潮の中に身を任せ、もがいている藻屑のような人生を好むなら、また別だが。

目次(タイトルをクリックすると該当記事に跳びます)
1 日本というシステム
2 日本を出よう
3 人生は楽しむためにある
4 日本人は礼儀正しいか
5 アイデンティティ
6 カタルーニャ語
7 日本への憧れ
8 ユニークな日本社会
9 欧州ひとり旅
10 お前は何者か
11 個の不在
12 南米ひとり旅へ
13 ペルー到着
14  荒涼たるリマの印象
15  不思議な幸福感
16  チノ
17 アジア人への連帯感
18  アジアの兄弟との関係
19  ジプシーとフラメンコ
20 アフリカ移民問題
21  グローバル化の代償
22  世界を視野に入れる
23  日本が口を開くとき


1 日本というシステム

 日本人は長い歴史の中で、生真面目で面白みのないことがヒトの道だと思い込んできた。それは、狭い島国の中で生き抜いていくための止むを得ない知恵であったのかもしれない。日本の外に出ることなど思いもよらなかった時代が続いた結果、互いに同質を求める「言わずもがな」の「世間」を創り出してきた。文字通り、空間的にも心理的にも狭く窮屈な日本社会が形成されてきたのである。

昨今のはやり言葉「空気を読め」というのも、この一連の閉塞社会の生み出した悪しき知恵なのかもしれない。その場の空気を読んだ言動をするのは、ちっとも変なことではないが、昨今の「空気を読め」の中身は、「空気に従え」であるのは誰もが気づいているのではないだろうか。

西洋の自我、主体性という得体の知れない概念に初めて対峙し、もがき苦しんだ鷗外や漱石の先達の奮闘努力にもかかわらず、今日の日本社会はいまだに人間を真に幸福にするシステムを開発できているとは言えない。
さて、この「ヒトを幸福に組み込まないシステム」に我々の短い人生をいつまで委ねているか、と自問すれば、答えは自ずから出るはずである。
  
 
2 日本を出よう

日本のバブル絶頂期に、私は日本を出た。その頃日本社会はかつてない好景気に文字通り浮かれていた。
普通の感覚なら、あの浮かれ加減は異常であり、気味が悪いことに気付くはずである。だが、あの時代、日本人は自分の乗っているエレベーターが何階で止まるのか、いつ降りなければならないのか、考える余裕もないほど浮かれていた。

自分の給料が信じられないほど上がっていき、上べだけ面白可笑しい「カネが主役の日々」が続く中、ふとある瞬間、これは何か違うな、ちょっと世の中おかしくなっているな、と心をよぎることはあっても、次の朝にはまた、そのバブルの泡の中で浮かれている、というのが実際のところだったのではないだろうか。いや、そんな気持ちの悪さに気付かないふりをしていただけかもしれない。バブルの絶頂期にその泡の中を泳いでいた人々は「バブル」という言葉さえも思いつかなかっただろうから。
 
ともかく、直観的に「この日本を出よう」と思いたった私は、はやる気持ちを押さえてできる限りの準備を整え、翌年の三月某日の朝、まだ肌寒い北国の街を、スペインのマドリードへ向けて飛び立った。
  
3 人生は楽しむためにある

「人生は楽しむためにある」ことを、私はスペイン人から教わった。
日本人にとってたまの休暇は、また次の仕事に備えてフッと息をつくだけの文字通り休息に過ぎないが、スペイン人を初めとするヨーロッパ人にとって、休暇とは長期休暇を意味し、一か月から三か月の間、国外や避暑地などで、全く仕事から離れて家族単位で徹底的に楽しむ。そのために一年間働くのだから。

つまり、日本人は働くために息抜きだけのほんの休息をとるのだが、スペイン人・ヨーロッパ人は長期休暇をいかに充実した楽しいものにするか、それを楽しみに残りの日々を働く励みとしているのである。労働と休暇の発想が全く逆なのだ。
スペイン人・ヨーロッパ人は長い休暇が終わった途端、もう次の休暇の計画を立てる。楽しい休暇、つまり楽しい人生を過ごすため必要な現実的な経済活動として、仕事を年間のスケジュール表に配置しているだけである。

働き蜂の人生だけが人間の道のように思わされてきた極東の小さな島国からやって来た日本人にとって、目から鱗、とはこのことであった。 

4 日本人は礼儀正しいか

日本人は礼儀正しい、と言われている。
たしかに、駅のホームでは白線の内側に測ったようにきちんと列をつくって電車を待つし、電車の中では周りの人に迷惑にならないように大声で話したりはしない。ほかの乗客をジロジロ見ては失礼なので、たいていは下を向いて眠ったふりをしているか、ケータイをいじっている。見知らぬ他人と関わらないことが徹底されている、とも言える。

ところが、スペイン初めヨーロッパの電車に乗ると、それぞれのグループが思い思いの話題で盛り上がっているし、それに負けじと車内に乗り込んでくる物売りの人たちが、入れ替わり立ち代わり、大声で商品の説明をする。中には、物乞いやパフォーマンスの人たちもいる。その中で、自分はエイズを患っていて皆さんの施しをお願いする、と淡々とその身上を説明する人を見たのも衝撃的だったが、それに嫌な顔をすることもなく聞き入り、いくらかのお金を差し出す人たちを目の当たりにしたときは、自分を培ってきた常識の底の浅さに愕然としたのを覚えている。

日本人は自分の利害の関わり合う範囲である「世間」の中では、なるほど礼儀正しいし、人情も厚い。しかし、いったん自分の利害と関わりがないと思った範囲では、つまり、見知らぬ他人との接触場面では、豹変して礼儀を忘れ、硬く心を閉ざしてしまう場面に、海外では何度も遭遇した。日本人のこうした海外での極端な人見知りや小心さは、残念ながら、狭い島国で長い間閉ざされてきた地理的・歴史的要因を思わざるを得ない。
実は、この日本人の「小心さ」こそ、日本人のさまざまな可能性を阻んでいるのではないだろうか。

5 アイデンティティ

  日本人は自分の存在を消すことに長けている。ヨーロッパの人々が長い歴史の中で発見し培ってきた自我、主体性を、日本人は今日まで本気で関心をもって育もうとしたことはなかった。いちおう「主体性」という日本語は作ったが、それは日本人にとって理解の外にあった、としか思えない。

自分が何者であるか、という問いは、そもそも自分の核がなければ問う発想が生まれない。だから、日本にはIdentity(アイデンティティ)の概念が定着するわけがない。自己同一性とかいう訳語を当てているようだが、一般の日本人がこの言葉を理解しているとは思えない。

スペインに住み着いて初めて私はこの言葉(スペイン語ではIdentidadイデンティダー)と向き合い、格闘しなければならなかった。日本を出てからは、「お前は何者だ」と問われる毎日だと言って過言でなかったからだ。 

6 カタルーニャ語

バルセロナ中世の小径

(中世のヨーロッパへ誘うバルセロナの小径)

  マドリードを拠点とした生活を一年ほどしてから、カタルーニャ州の首都バルセロナに移住した。マドリードは好きな街だが、そのライバル都市であるバルセロナは魅惑的な国際都市だった。ここでは、お前は何者なのかと問う「アイデンティティ」は、一層複雑な顔を見せた。

カタルーニャ州は北部のバスク地方とともに、スペインからの独立を掲げてきた地である。カタルーニャ語(catalán)という独自の言語を初め、強烈な独自文化を育んできた歴史がある。ここに住む人々は、お前は何者か、という問いに、語気を強めて誇らしげに言う、「我々はスペイン人ではない、カタルーニャ人だ」と。

彼らはフランコ独裁時代に弾圧され使用を禁止されていたカタルーニャ語を地下で脈々と護り続け、今日ではテレビ、新聞、映画、書籍とあらゆる生活場面で、この言語を見事に復活、いや寧ろ拡大させている。その独自の言語・文化への意志の強さは、驚嘆するしかない。 

7 日本への憧れ

  スペインではカスティージャ語(これがスペイン語)、カタルーニャ語、ガルシア語、バスク語、バレンシア語などの公用語が認められている。スペイン人の独自の言語(方言ではない)へのこだわりは日本人の想像を遥かに超える。日本語のように消滅する気配さえ感じられない言語を与えられている我々日本人には、彼らの言語への執着が体質的に理解できないのだろう。

だから、日本人は自分たちの言語について全く無頓着な言動を平気でしてきた。日本語はフランス語に変えたらいい、と言ったのは小説の神様と言われた志賀直哉である。初代文部大臣にまでなった森有礼も、英語を国語したらいい、などと言い、明治以来、日本語廃棄論があとを絶たなかった。スペイン人がこのことを聞いたら、怒り、あきれて、お前のアイデンティティは一体どうなっているんだ、と我々に詰め寄るに違いない。

ある日、私がバルセロナの公園のベンチで日本の本を読んでいると、見知らぬ御婦人たちが私の隣に腰をかけた。その一人が私の手にしている本を見て、日本の方ね、と声を掛けてきた。なんと美しい文字なんでしょう、と彼女は感嘆の声を挙げた。彼女たちは日本語について、日本について、矢継ぎ早に私を質問攻めにしたあと、私たちの失ったものが日本にはあるのね、と遠いアジアの極東にある日本への憧れを隠そうともしなかった。

彼女たちだけでなく、スペイン人や他のヨーロッパ人が口々に日本を称賛しその憧れを標榜するのは、敗戦後の驚異的な日本の高度経済成長ではなく、洗練されたサムライの時代の日本人のスピリットであった。

8 ユニークな日本社会

  私は日本を出てから、イベリア半島(スペイン・ポルトガル)を三度以上、東西ヨーロッパのほとんど、北アメリカ(アメリカ合衆国・カナダ)、南アメリカ(ペルー以南のほとんど)そして中央アメリカのメキシコ、を旅したり生活の場にしたりしてきた。これらの経験は私に、人間の面白さ、と、人生を楽しむコツ、を教えてくれた。

海外に長く身を置くと、いつの間にか日本列島全体を俯瞰するような視線が出来上がってしまう、ことに気付く。だから、日本から友人たちが訪ねて来て、カフェで一杯やるときは、つい、日本は、とか、日本人は、の話になってしまう。

それは、考えてみると、望郷の念や懐かしさからではなく、日本社会の特殊性や日本人の価値観のユニークさといった観点から語っていることが多い。日本はまことに珍しい「世の中」を発明したが、日本人は自分たちの日本社会や自分たち日本人がユニークだと言われても、いったい何のことか、体質的に理解し難いのだ、とつくづく思う。

もちろん、何に対してユニークかというのは、現在人類がかたち作っている世界がいわゆる「西」の価値観、「欧米」の観点から見てそうなのであるが。「欧米」の世界観が世界をリードしている事実から見た日本のユニークさ、ということになる。

9 欧州ひとり旅

  さて、実際に私の旅の経験を話してみよう。まずは、ヨーロッパの旅、から。

メキシコ滞在の折り、ヨーロッパ一周ひとり旅を試みた。
各地での旅の残像、エピソードは追い追い紹介していくとして、とりあえず、この欧州一人旅の全体のイメージを思い浮かべてもらうこととする。

まず、スペインのマドリードへ飛び、そこからスイスのジュネーブまで長距離バスで行く予定だった。
ところが、実は、最初に大きな誤算があった。
 
予定では、スイスのジュネーブから東西ヨーロッパを廻り、最後にまたジュネーブに寄ってマドリードに戻るつもりだった。
ところが、スペインのマドリードからスイスのジュネーブへ向かうはずの長距離バスが、なんと、イタリアのジェノバに着いてしまったのである。
マドリードで長距離バスの切符を受け取ったとき、何となく嫌な予感が頭をよぎり、切符売り場のセニョリータに確認してはいたのである。受け取った切符を見ると、
「GENOVA」
と書いてあった。
それで、私は乗車券売り場の女性に
「行くのはジュネーブだよ。ジェノバじゃないよ」
と確認した。が、彼女は自信たっぷりに「間違いない」と答えたものである。後で調べてみると

イタリアの「ジェノバ」のイタリア語のつづりは「GENOVA」

スイスの「ジュネーブ」の英語つづりは「GENEVA」

とは「O」と「E」の一文字しか違わない。一文字の違いで国を違えたのである。因みに、ジュネーブの公用語であるフランス語の「ジュネーブ」は「GENÈVE」で、英語の「ジェノバ」は「GENOA」である。
こうして私のヨーロッパ一周ひとり旅は、計画通りとはいかず、最初の訪問国がスイスからイタリアになってしまったのである。
だが、こうしたハプニングこそ一人旅の醍醐味でもある。最初から実にワクワクした旅立ちとなったわけである。

思いがけずも最初にイタリアに入った私は、心躍る気持ちのまま、フィレンツェ、ヴェネツィアなどの北部の主要都市を巡り、続いて、ユーゴスラビア(当時はまだ分裂しておらず一国であった)を経てギリシャに着く。さらに船で南下し、ギリシャの真珠のような島々を巡り、暮れなずむトルコに上陸する(この瞬間が今回の旅情のクライマックスである)。イスタンブール、カッパドキア、カムッパレ、と不思議の国をたっぷりと味わう。トルコはアジアとヨーロッパの接点を自国に抱えている。

トルコから北上し、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーを巡る。当時の東ヨーロッパはソ連の強い影響下にあった。まだベルリンの壁が存在しており、社会主義体制であった。ハンガリーでは温泉に入り旅の疲れを癒す。ここから西側のオーストリアに入り、モーツアルトの天才に酔う。

再び東ヨーロッパに戻り、チェコスロバキアではカフカの迷路を彷徨し、ポーランドではアウシュビッツ強制収容所を訪問し人間の狂気に戦慄する。そこから東ドイツに入り、いわゆるベルリンの壁を体験するわけである。東ベルリンから地下鉄で西ベルリンに抜ける。地元の人々には東西ベルリンの行き来が困難を極めたが、観光目的の旅行者には拍子抜けするほど簡単に移動できたのである。

西ドイツの主要都市を巡った後、再び北上し、長距離バスで北欧に入る。北欧へはバスごと大型船に乗り込むのである。北欧四国を急ぎ足で巡り、今度は南下し、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国を慌ただしく抜け、そこからはフランス・パリを通り、最後は再びスイスに到着し、パウル・クレーの珠玉の原画と対面し、ジュネーブではこれまで溜まっていたヨーロッパ中の通貨をドルに換える。世界の銀行と呼ばれるスイスだからこそ、訪問した各国の小銭まで換えてくれるのである。当時はまだヨーロッパ統一通貨ユーロは誕生していなかった。今回のヨーロッパ一周の旅の最初と最後に訪問する国をスイスにしようと思ったのは、こうした事情があったからである。

この欧州一周の旅は1989年の夏で、ベルリンの壁が東西ドイツ市民によって破壊された
「ベルリンの壁崩壊」が起きたのは、この年の11月10日だった。

そして、壁崩壊からわずか一か月後にはアメリカ合衆国とソビエト連邦との間で、
「冷戦の終結」宣言が発表された。
このあとも、世界歴史の変動が怒涛のように繰り広げられたのだった。
1990年10月3日、東西ドイツの統一が実現し、
1991年8月20日にはバルト三国が独立、そして、
1991年12月25日にはソビエト連邦が崩壊し、
世界に新たな歴史のページが開かれたのである。

私はこれらの世界を変える歴史的な出来事を、ヨーロッパとアメリカ大陸で体感していたのだ。
なんという歴史の変動だ、と、目の前で変わる世界を、私はとてつもない世界の希望として実感していた。
ともかく、私の欧州の旅は、世界の歴史的変動の始まるその年の直前に、その蠢動も知らずに偶然に敢行したのだった。
とりわけ、社会主義国としては最後の体制だった東ヨーロッパの国々を廻ることができたのは、いま思えば、なんと幸運な、素晴らしい旅だった。

10 お前は何者か

  海外を旅することによって、世界の中に置かれた日本というものを、自然と見るようになる。これは日本の中にいて見るものとは、明らかに違う角度、視点である。言ってみれば、海外に出て初めて地球儀の上の、あの小さな島国、日本列島全体の姿が、他の国々の姿と同等の視点で見ることができるのである。

その変化を、その自分の視点の変化を、驚きをもって受け止めることによって、今度は、その視点が自分自身に向けて、新たな「お前は何者だ」という門を開けることになる。それは日本の中で思春期に誰もが開く門とは、全く別のものである。世界の中の、地球の中の自分である「お前」を問うという、それまで考えもしなかった問いなのだ。

言わば、地球儀を覗き込む巨人が自分自身なら、その地球儀の中に小さな染みのようにしか見えない日本列島の中で蟻のように蠢いている個としての一人の人間もまた自分自身、という分裂した自分の姿を、驚きをもって見ることになる。

これは、長い歴史の中で日本人が持たなくてもいい視点であった。日本人は世界の中の一人の人間という視点を、正確な意味で、かつて持った経験がなかったのかもしれない。世界とはいつも日本の外側に横たわる得体の知れないもので、そこに直接、たった独りの素っ裸の自分がいる風景を見ることがなかった、ということか。その風景を見ることが、アイデンティティとの遭遇なのである。

このアイデンティティ、つまり、今ここに述べたような意味で「お前は何者なのか」という問いにこそ、実は人生を豊かで本当の意味で楽しいものにするヒントが隠されているのだ。


11 個の不在 

  日本の外から日本社会を見ると、この社会はなかなか人間を幸福に組み込めない仕組みになっている、と思える。それは、狭い限りのある土地の中で、他国との人の行き来の難しい島国という地形と、劇的な民族移動の影響をほとんど受けたことのない歴史的な背景が相俟って、一所懸命、つまり、ひとところに命がけでしがみつく、ことが人生の肝心とされてきたことと無関係ではあるまい。

人の移動のないことが前提となって、与えられた小さな土地で一生涯をどう生きるか、ということが人生なのであれば、近々に暮らす動かない人たちの間で、その近々の「世間」に外れるような生き方はタブーとなり、世間の掟に従えなければ、人間の道に外れることになる。

つまり、日本人は程度の差はあるものの、それぞれの土地やコミュニティの「世間」の空気に従うことを、その「一所」から抜け駆けできないように、見えない楔(くさび)としてきた。コミュニティの一員であるヒトは、少しでも異質な臭いのするものを自分から排除し、全体ができるだけひと色になるように、近々の人々が醸し出す「世間」に自分自身を溶け込ませる努力をするしかない。

その努力を称して、ヒトの道、としてきた。それが日本人の「真面目さ」や「礼儀正しさ」となって培われてきたのである。こうした日本人的性質と言われるものには、個人という存在を抹殺してコミュニティの「世間」に奉仕するという、ユニークな美徳が付いてまわる。長い間、日本というコミュニティの中では、「個」やその前提となる「主体性」は、ヒトが生きていくうえで邪魔になる余計なもの、いや実際のところ、考えもつかないものだったのかもしれない。

近代日本の精神文化の上で家長や長男のような役回りにいた森鷗外や夏目漱石が異国の空気に触れ、西欧の「個」や「主体性」に遭遇し、悪戦苦闘した形跡はあるが、日本社会はとうとう今日まで、それらが何者であるのか、捉えきれずに来たのではないだろうか。それが、昨今流行った“空気を読めよ”という強迫じみた「世間」の掟ではないか、と気づく。コミュニティの空気に従え、という長い歴史の中で培われてきた、このオキテである。
この“「個」不在のオキテ”が“形式主義”と一体化したとき、それは絶望的な姿となる。

さて、こうした視点を日本に対して持つに至った経緯には、三か月余りに渡った「南米の旅」の経験がたいへん重要な意味を持っていた。
この旅について触れてみよう。

12 南米ひとり旅へ

  私がメキシコで中南米の気ままな一人旅を計画していた頃、日本はまだバブル景気に沸いていたが、中南米の政情は不安定な地域が多かった。特にメキシコ以南ペルー以北は内紛の情報やゲリラ出没の噂が絶えなかった。コロンビアなどでは旅客機が爆破される、というような物騒な話もあった。

私はこの中南米の旅の足慣らしに、東西ヨーロッパの旅とアメリカ・カナダの旅を、それぞれ一か月半かけて敢行したばかりだった。さて、今度は本命の中南米の旅だ、と勇んではみたものの、この地域の危険さは、欧州や北米とは比べものにならない。それに、実際計画を立ててみると、中南米の広さは半端なかった。何となくイメージしていたこの地域の、実際のでかさには、思わず唸るほど想像以上だった。中南米の国の主要な町だけ走り回っても、とうてい予定の三十日間では収まらない。

そこで私は、メキシコから一気に南米ペルーまで飛んで、中米とペルー以北は今回は断念することにした。


13 ペルー到着
 

 十二月に入って、南半球ではこれから夏本番になる。まずはメキシコシティからペルーのリマへ向かう。メキシコ国際空港内で抗マラリア剤を飲まされた。これから行くところにブラジルなどでジャングルに行く可能性もあるからだった。実際はそんな時間はなかった。南米はとにかく広かったのだ。

 

 リマ行きの飛行機はパナマで乗り換え、エクアドルのグアヤキルでしばし羽を休め、ペルーのリマには真夜中の二時過ぎに到着した。もう、明るくなるまで空港のロビーで待つしかないだろう。宿泊する宿は、現地到着後に自分の目で見て決めることにしていた。夜明けを待つ間、メキシコから持ってきたコーヒーを飲みながら空港内の様子を見ていたが、この間、怪しげな男たちが入れ替わり立ち代わり私に話しかけてきた。宿の呼び込みがほとんどだった。

 

 とにかく、最初の南米の地、リマに着いて心躍る。今回の南米の旅は、ペルー以南の国々をすべて訪れてみる、という以外、計画らしい計画は立てなかった。すべて現地に着いてから判断する、という「無計画の計画」だった。この後の旅がどうなるか、楽しみでしょうがなかった。

さて、ようやく白々と夜が明けてきた。待望の気ままな南米一人旅が始まる。


14  荒涼たるリマの印象

私はリマの空港ロビーの椅子に腰かけ、水稲の冷めたコーヒーを飲みながら、ひたすら夜が明けるのを待った。居眠りでもしたら、荷物はあっという間に消えてしまうだろう。小さなキャリーカートに括り付けたリュックと肩掛けのバッグ、これが無くなったら旅は即中止だ。空港ロビーでは地元の子供たちが夜中じゅうウロウロして、警官に小遣い銭をねだったりしていた。相変わらず、ひっきりなしに怪しげな男たちが私に話しかけてくる。

 

何時間こうしていただろうか。外を見遣ると、ようやく白々と朝日が差してきた。私はミクロと呼ばれる乗り合いタクシーに乗り、リマのダウンタウンであるセントロ地域で下してもらった。

 

これは大変な所に来てしまった。私は切り込むような日差しが照りつける中、さらに別の熱い何かが突き刺さってくる気配を感じた。ホテルのリストを見ながら、いかにも土地勘のない観光客といった様子の私を、浮浪者風の男たちが付かず離れずという感じで、さっきから射るように見つめていたのだ。

 

砂ぼこりの舞うギラギラした日差しの中で歩く当時のリマの街は荒涼とした印象で、伝え聞いていた治安の悪さが現実的なものとして感じられた。シャッターを下ろしている店が多い中で、やっと見つけた飲食店で電話を借りた。メキシコで出会った日本人に、「とにかく、ここに電話して身の安全を図ったほうがいい」と渡されたメモを頼りに、その日系ブラジル人宅に連絡を取るためだ。


15  不思議な幸福感

「そんな所にいないで、今すぐ私の家に来たほうがいい」奥さんのクララさんに言われたとおり、私は急いでサン・イシドロ地区のお宅に伺った。

 

「今の大統領になってから、この五年間、ペルーは悪くなる一方なの。あなたは最初に一番ひどい所に来たから、これから後の南米の旅は印象が良くなるでしょう」彼女は最近のペルーの荒(すさ)んだ状況に眉をひそめた。

 

実際、リマのシャッター街に巻き上がる砂埃の中で怪しげな男たちにつけられていた私は、この地に殺伐とした印象を抱いた。しかし、同時に私は、ペルーの人々にある種の懐かしさも感じていた。

 

 日本とペルーは、その祖先を同じくする、という説がある。遥か氷河期に、ベーリング地帯を渡ってアジアから来たモンゴロイドの人々がペルーの原住民となったのだが、同じ頃、日本列島にも同じ人種の人々が定着し始めた、と言うのだ。その証拠にペルーの赤ん坊のお尻にも日本人と同じ蒙古斑の青いアザが出る、と以前聞いたことがある。

 

地球の裏側で、自分のアイデンティティに遠い古代のロマンを絡めていると、妙な懐かしさが私の血を騒がせた。遥々日本を出て来たからこそ味わえる、言葉に表わし難い胸躍る感覚だ。一瞬、裸馬に乗り広大な草原を怒涛のように疾走する騎馬民族たちが私の頭の中を駆け巡った。旅の感情を揺さぶる不思議な幸福感だ。


16  チノ

数日間のリマの見物を終え、クスコの日曜市を冷やかし、マチュピチュの遺跡とその麓の町アグアス・カリエンテス(スペイン語で「熱い水」)の露天温泉を楽しんだ後、再びクスコ周辺を巡るために列車に乗った。

 

 列車内はもう席がないほど混んでいたので、私はバッグを床に置き、その上に腰掛けていた。かなり長い間そうしていなければならなかったが、東洋人の私に興味を持ち話しかけてくる人が何人かいて、退屈はしなかった。

「どこの国から来たの?チノ?」

チノとは中国人のことである。これまでも、そう言われるたびに私は自分の感情を覗き込んできた。

 

 スペインで道を歩いていても、私は何度もチノと囁かれた。中には擦れ違いざまに「チノ」と囁き、わざと痰きり音をして行く者さえいた。こうした場合は明らかに侮辱の意味を込めて「チノ」と言っている。

 

スペインに住み始めた当初は、「日本人だよ」と言い返すこともあった。

だが、そのように言い返す自分に「何か合点のいかない気持ち」が生じてくる。

 もちろん、日本人を中国人と間違えることがコミュニケーションをとるうえで支障があるという場合は自分の出自を相手に伝えることは大切だろう。だが、擦れ違い際にわざと聞こえるように「チノ」と吐き捨てる人は、私が日本人だろうと中国人だろうと、そんなことは大して問題ではないに違いない。

 

ただ「自分は恵まれた境遇にはないが、このアジア人よりはマシだろう」という優越感を得たいのが本音だろう。特に、肌の色や出自で社会的に差別されていて、自分は正当な評価や報酬を受けていない、と感じている人たちは、自分たちより恵まれていないはずのアジア人に、その捌(は)け口を探すのは想像できる。そう考えると、「チノ」と言われて「日本人だよ」と言い返すのは、何かむきになっているようで、大人げない。
…これが私の「何か合点のいかない気持ち」の分析結果だが、さて、どうだろう。

17 アジア人への連帯感

ヨーロッパでもそうだったが、南米でも中国人はよく見かけた。中華料理店で働いている人が多いのだろう。とにかく世界のどんな辺鄙(へんぴ)な町にでも中華料理店がある、と思うくらい必ず目にする。こんな所にもある、と感嘆することもしばしばである。華僑の伝統があるのだろう。華僑については12世紀初めの宋代の文献には見えていたらしいが、とくに19世紀初頭の奴隷貿易の廃止(まず1807年にイギリスで法律が定められた)のあと、世界から必要とされる大量の安価な移民労働力として見知らぬ異国に出て行ったのである。         

 

過酷な異国での商売はシビアにならざるを得なく、民族の慣習や文化の違いから地元の人々の偏見や誤解もあっただろう。白い眼で見られながらも、懸命に漢民族としてのアイデンティティのために戦ってきたことは容易に想像できる。そう考えると、彼ら華僑の生への執念、逞(たくま)しさには驚嘆する。

 

あるウイークデーのマドリードの街を歩いていると、

「今日は中国レストランはやすみなのかなあ」と聞こえよがしに言う地元の人さえいた。私のアジア顔をチノと見て言うのだろう。華僑として世界中で安価で手軽な中華料理を提供してきた中国人は、どうしても自分の境遇に不満を抱く地元の人々の不満のはけ口として見下され、侮蔑の対象となってしまうのだろう。白人優位思想からなかなか抜け切れないヨーロッパに住むと、日本人である自分が紛れもなく黄色いアジア人であること、欧米文化とは異質の東洋文化で育った人間であることを再認識せざるを得ない。実際、見知らぬ辺境の地で、身体がコメの飯を恋しがったとき、中華レストランにはどれだけ世話になったことか。

 

 そのアジア人の代名詞がチノ、中国人なのだ。スペインでも中南米でも、チノは日本人を含めた東洋人・アジア人を総称した呼称だと理解したほうがよさそうだ。侮蔑される対象の「チノ」が、アジア人である日本人、すなわち自分も含まれていることが分かったとき、アジア人全体への連帯感が私の中の深い奥の方で芽生えていることに気づく。


18 アジアの兄弟との関係

さて、同じアジアの一員として中国とともに日本の隣人である韓国の人々についても触れておこう。スペインからメキシコへ移動する際、途中、ニューヨークで市内観光のバスツアーに個人参加したことがある。車内を見渡すと日本人は私ひとりで、他は韓国の団体客だった。

 

出発前に初老のアメリカ人運転手が観光絵葉書のセットを車内で売り始めた。

私も買うことにしたが、大きな紙幣しか持ち合わせがなかった。運転手は

「お釣りは他の客を廻ってから渡す」と言ってそれをあっという間にポケットに仕舞い込んだ。一通りバス内を廻って私の所に戻って来た彼は、お釣りを早口で何度か数え直しては札を取り換えていった。彼は釣銭を誤魔化したのだ。私と運転手との押し問答の中、一人の韓国人女性が運転手に言った。

「残りのお釣りを渡しなさい。私の母が全部見ていましたよ」有無を言わせぬ毅然とした物言いだった。運転手は残りの釣銭を私に渡さざるを得なかったのである。

 ニューヨーク一日市内観光も終わりに近づいたころ、その韓国人団体客の一人、年配の紳士が私に日本語で話しかけてきた。

「あの運転手、悪い人だね。気を付けなければいけない。日本人、良い人多いよ」

 

日本を出る事によってより日本が見えてくるのと同じように、むしろアジアを出ることによって逆にアジアをより感じることができた経験である。
 欧米主導のグローバリズムが我が物顔で世界を覆っている現実に呑み込まれ、日本や他のアジアの主体性やアイデンティティが失われそうにも見える今日、あえて日本をそしてアジアを俯瞰(ふかん)的に観る位置に出て、時代に即した新たな価値観を世界に示していかなければ、欧米だけの偏ったグローバル化が進んでしまう。そんな思いを改めて抱くのである。欧米人も彼らの文化・価値観だけでは行き詰ることを百も承知なのだ。そういう意味では、日本は新たな時代の価値観を世界に提示していける立場にあるのではないか、と思っている。

 中国と韓国の人々を想ったこの二つのエピソードは、日本人がアジアの外で隣人であるアジアの人々と出逢うことの意味を私に考えさせるものであった。
 
 

日本と中国あるいは韓国との関係は良い時もあるし、ぎこちない時もある。もともと兄弟意識の強い関係だからこそ、相手の愛情を当たり前のものとした前提で相手を見がちになるのであろう。もう、幼い兄弟関係から成人した兄弟関係になってもいい時期である。兄弟であっても、お互い独立した大人同士の関係に移行すべきだろう。
 むしろ、過剰な愛情期待から一歩離れて、お互い独立した人格を形成できるように、互いにある程度の距離を意識してとるのが賢明なのではないだろうか。地理的に遠く離れた他の国々と同じように、心理的な距離の置き方をきちんと取ることが、むしろ互いの独立した関係を尊重することにもなるだろう。人の関係も国家間の関係も基本的には同じだ。時代や情勢を見ながら、時には近づき、時にはしっかりと距離を置く、これが健全な長続きする友情を作り上げていく方法のような気がする。

19  ジプシーとフラメンコ

フラメンコ1 440pc D000804-R1-00-0 (1) 

たいていの日本人にとって、人種差別の問題は日本を出て初めて当事者意識が芽生える。自分が差別される側にあることが実感できるからだ。とくに欧米社会に見られる露骨な差別意識の中に自分を置くと、差別する側にもされる側にも容易に加担する可能性のある自分の中の差別感が浮き彫りにされてくる。

 

 私の最初の海外居住地スペインでは古くからジプシーの問題がある。ジプシーは近年、日本では差別用語になっているようでロマと呼ぶらしい。しかしロマという名称はジプシーの中の一部の集団名だとも聞くので、ここでは従来通りジプシーとして進める。

 

 さて、ジプシー Gypsyはスペイン語ではヒターノGitano と言う。どちらも「エジプトEgyptから来た人々」という意味で付けられた。しかし、実際はインド方面からヨーロッパに流れてきた人々が十四世紀ごろからルーマニアRomania辺りに渡ったのが本当のところらしい。それでロマRoma という名称ができたのだろう。実際、現代でもスペインでは街中で花を売り歩いているルーマニア人を私も何度か見かけた。
 
ルーマニア語(limba română)名前からも分かるように、東欧では唯一イタリア語やスペイン語と同じロマンス語である。だからスペインなど南欧に流れて来やすかったのかもしれない

 
 とりわけアンダルシアでは見るからに彫りの深い、インド人を髣髴(ほうふつ)とさせるジプシーたちが道行く観光客に花を売っている姿が目立つ。スペインではこのジプシーたちとの共生がひとつの課題となっている。スペイン的イメージの象徴とも言えるフラメンコはジプシー文化の代表だろう。

 

スペイン南部アンダルシアに流れて来たジプシーが、スペイン人社会から受ける偏見や差別に対する心の叫びや苦悩を歌に表現した結果、カンテ・フラメンコ(cante flamenco)が誕生した。日本ではフラメンコと言えば踊りのほうを思い浮かべるが、 このカンテと呼ばれる、魂の奥底から響く深い歌(カンテ・ホンドCante Jondo)こそが、実はフラメンコの神髄となっている。

 

私はアンダルシアやマドリードで何度かフラメンコを見たが、ショー化されていないフラメンコは、何気なく踊り手たちが輪になって椅子に座っていると、輪の中で手拍子が鳴り始め、一人がカンテを歌いだす。そのリズムに誘われるように誰かが立ち上がり輪の真ん中に出て踊り始める。一通り踊るとまた代わりに誰かが立って踊り出す。手拍子が激しくなり、踊り手も苦悩を眉間に表わして感情を激しく踊りに表現する。そこに生じる魂の震えを共有するのがフラメンコの本当の楽しみ方なのかもしれない。この魂の震え、神秘的な魅力をドゥエンデDuendeと言う。

20  アフリカ移民問題

スペインではジプシーへの差別問題の他にアフリカからの移民問題がある。

アフリカのモロッコなどから簡易なカヌーや浅瀬専用船で海を越えてスペイン海岸に流れ着く密入国者も多い。ほとんど海を超える能力のない手作りのような船、時には筏(いかだ)に乗ってくるのだから、渡航中、難破して死者を出すことも珍しくない。

 

 こうして海岸に流れ着いたアフリカ人たちはそのままスペインに不法移民になってしまうわけだ。人権意識の高いヨーロッパでは密入国者たちを無碍に追い出すことはできない。命を懸けての渡航でも、そこは彼らにとって天国なのかもしれない。しかし、彼らはその後どうやって生活していくのか。

 

 スペインの新聞に、どの国が一番嫌いか、というアンケート調査の結果が出ていたが、二番目に嫌いな国がアメリカ合衆国で、それ以上に嫌いなのがモロッコ人だった。その理由は、アメリカ人はどこの国に行っても自分たちのスタイルをごり押しするからで、モロッコ人は泥棒が多いからだと言う。命を懸けてまで流れ着いたヨーロッパで命をつなぐために、モロッコ人を初めとするアフリカ人不法移民者たちは止むを得ず、不法行為を重ねて生きていくことになる人も少なくないのである。

 

 もちろんほとんどのモロッコ人は合法的にスペインに入国して真面目にスペイン社会に溶け込んでいるに違いないが、私もマドリードで鞄を盗まれた経験がある。その時の話をしようと思う。

 


アフリカ移民 IPS Japan 068Immigrants
IPS Japan

21  グローバル化の代償
  
  バルセロナからマドリードに遊びに行った際、インターネットカフェで置き引きに遭った。ネットに夢中になっていた私の足元から鞄が無くなっていたのだ。そのことに気付いた時点で、私は立ち上がって客たちに、警察が来るまで動かないように言った。やがて警察が来て、店内の監視カメラの映像を私に見せた。そこには、一人の男が私のバッグを肩に掛けて店を出る様子が映っていた。まるで自分のバッグのように違和感なく肩に掛けて堂々と店から出て行った。

 

「見てごらん、モロッコ人だよ」警官は、やっぱりね、という口調で私に言った。カバンの中に入れておいたクレジットカードはすぐに使用不可をかけたが、すでに十万円ほど引き出されていた。暗証番号をメモしたノートも鞄の中だったのだ。用心して暗証番号は漢数字でメモしておいたのだが、一味の中に漢数字の分かる者もいたのだろう。

 

私は、ヨーロッパだから漢数字ならたとえメモを見られても安全だろうと考えていた。サインもローマ字でなく漢字で書くことにしていた。だが、今回のことで、私はあまりにも世界を知らな過ぎたことがはっきりした。ヨーロッパ各地を荒らしている国際窃盗団には漢字を解読することなど何でもないのだ。

 

このモロッコ人のようにアフリカからヨーロッパに辿り着きはしたが、そのあとの生活は泥棒に身を落とす者が少なくないのだ。ブローバル化の結果、何が起きたか。私は理不尽な授業料を払って学ぶことになった。グローバル化の名の下で行われたここ数十年の「世界のアメリカ化」は、当然うまくいくはずもないが、少なくとも「反グローバリズム族」と「グローバリズムからの落ちこぼれ族」を大量に産み出した。

 

自分たちの文化で生きていた人々に、

「お前たちの文化は正しくない。我々の文化こそ正しい。これからの世界はみんな我々の文化で生きて幸せになるべきだ」

と押し付け、お節介をしたばかりに、不幸な人生を送る羽目になった人は救われない。

22  世界を視野に入れる

アメリカ合衆国が常に世界を視野に入れて発言し行動する点は、日本がもっとも欠けている点でもある。そういう意味ではどうしても内向きになりがちな日本はアメリカの外への発信力に関心を寄せてもいいが、独善主義の裸の王様では困るのである。

 

2013年秋の国際社会に目を向けると、シリアのアサド政権が化学兵器を使ったと判断して、米オバマ政権がたとえ単独でもシリアに武力攻撃を行う用意があると発表したことが取り沙汰されている。私はすぐに3.11すなわちニューヨークでの同時多発テロと、その後の米のイラクへの武力攻撃の忌まわしい記憶が蘇った。

 

私のファイルの中に次のような記事が保存されていた。

―アメリカン・エクスプレス・トラベルサービスは、ワールド・トレード・センターのノースタワーの94階にありました。11名のトラベル・カウンセラーがテロの犠牲になりました。彼らの慰霊のために、アメリカン・エクスプレス社は、本社のある、このワールド・ファイナンシャル・センターの一階に、11人の名前とその遺族たちの思い出を刻んだ11 Tears(「11人の涙」)という噴水を建立したのです。―

 

私はこの数年前にワールド・トレード・センター内のアメリカン・エクスプレスのオフィスを訪れていたのを思い出した。

 

2001911日、ワールドトレードセンターなどを狙った同時多発テロ以降、世界は変わった。私はそのとき、その瞬間、偶然にテレビのニュース番組でその生中継を見ていて、目撃していた。私はバルセロナに住んでいて、ロンドンから日本のテレビ番組を送ってくるプログラムを視聴していたのである。この番組はNHKの生中継だった。司会の横尾アナが「たった今ニューヨークのワールドトレードセンターの一つに飛行機が衝突したようです」と言って画面を解説していたが、「あっ、もう一機突っ込んできたように見えましたが…」という言葉を発して茫然としていたのを、覚えている。世界の歴史が変わる瞬間であった。

 

そしてその後世界は、今度はアメリカ合衆国の振る舞いに再び震撼することになる。「超大国」の絶望的な「振る舞い」であった。米国防総省がイラク南部にあるイラク軍指令施設を米軍機で空爆したと発表した。これ以降、イラクへの本格攻撃が始まったのである。

23  日本が口を開くとき

バルセロナの私の馴染みのバル(スペインの喫茶店兼居酒屋)でも、話題はサッカーに加えて「アメリカの報復戦争」になっていた。このアメリカへの同時多発テロの衝撃はブッシュ米大統領のテロリストたちへの「報復戦争」宣言によって、文字通り世界中に戦慄を走らせた。

 
例の如くバルの常連客たちが喧々囂々と議論している中、「お前はどう思うんだ?」とバルのマスターが私の意見を聞いてきた。「アメリカがイラクに報復することについてどう思うか」ということだ。この件について日本は沈黙を守っている、とスペイン人は捉えている。彼は、アメリカの報道が今回のテロ事件を「パールハーバー」になぞらえていることを知っていて、私に聞いてくるのである。
(私は「日本」ではない、と彼らに言うのは通用しない。彼らの身近に「日本」は私以外にないのだから)

 
映画「パールハーバー」はヨーロッパでも公開されたが、私は見ていない。意匠は凝らされていても、この手の映画はアメリカ得意の米国民意識昂揚が仕組まれていることを感じたからだ。バルのマスターは、映画「パールハーバー」について「例によってアメリカ人を善に描くだけのつまらない映画さ」と感想を話してくれた。日本人の私に気を遣ってのこともあるだろうが、善のアメリカ人が悪の日本人をやっつける、というパターンの映画(日本では放映されないと思う)をこちらのテレビでときどき見ているので凡そ想像はついていた。

 
もっとも「パールハーバー」の日本公開版は日本人の感情を刺激しないように修正されていたようだ。映画「パールハーバー」が公開された時、なぜ今「真珠湾」なのか、とその制作意図をいぶかる向きもあったが、今回のテロ事件とその報復戦争を考えるにつけ、アメリカは大きな米襲撃事件を形は違っていても予感していたのではないか、とさえ感じる。

 
こうした「報復戦争」は一歩間違えば人類の滅亡につながる。アメリカが暴走するようなことになったら、誰が「待て」を掛けられるか。いろいろな意味でアメリカに対等に率直な意見を言えるのは世界を見回してもフランスだけだろうが、残念ながらフランスでさえその立場を活かせていない。こういう時こそ、アメリカの「友人」日本の出番でもあるはずだ。「日本」が口を開くときが来ているのではないだろうか、と未曽有の世界の危機の中で私は思った。

 

すなわち、「パールハーバー」と「ヒロシマ・ナガサキ」を経験している「日本」が、こうした他国への武力攻撃に対して、アメリカ、世界へ向けて「重大な発言」をするときが。そのとき、日本は変わるに違いない。日本が変わるわけはない、という見方もあるが、個々の日本人が主体的な「覚悟」を得たとき、私の“妄想”も現実味を帯びてくるはずだ。


<↓クリックすると関係ブログが見られます>
にほんブログ村 旅行ブログ スペイン旅行へにほんブログ村 旅行ブログ 中南米旅行へ

関連記事
スポンサーサイト

tag : 人生を3倍楽しむ方法 人種差別 ジプシー フラメンコ アフリカ移民 グローバル化 世界のアメリカ化

 
Secret
(非公開コメント受付中)

バルセロナの情報&コミュニティサイト「バルセロナ生活」
Living in Barcelona, Spain 世界各国/地域に1サイトのみの海外日本人向けのサイトのバルセロナ版です。 読者による投稿型サイトなので、皆さんの投稿で出来上がっていきます。
最近の記事
カテゴリー
プロフィール

黛 周一郎Shuichiro Mayuzumi

Author:黛 周一郎Shuichiro Mayuzumi
Centro de japonés
NAKAMA-ASOCIACIÓN PARA EL FOMENTO DEL INTERCAMBIO CULTURAL HispanoJaponés

FC2掲示板
FC2カウンター
連載「バルセロナの侍」「スペイン語を一か月でものにする方法」など
①小説「バルセロナの侍」 ②言語習得「スペイン語を一か月でものにする方法」 ③旅行記「ガラタ橋に陽が落ちる~旅の残像」 ④エッセイ「人生を3倍楽しむ方法 - なぜ日本を出ないのか」 を連載しています。
にほんブログ村
<↓クリックすると関係ブログが見られます>
にほんブログ村 教育ブログ 日本語教育へ
にほんブログ村 旅行ブログ スペイン旅行へ
にほんブログ村 旅行ブログ 中南米旅行へ
にほんブログ村 教育ブログへ
にほんブログ村 旅行ブログへ
人気ブログランキング
PC2ブログランキング
FC2 Blog Ranking

FC2Blog Ranking

ブログ王
QRコード☛このブログのアドレスをケータイやスマホでメモできます。
QR
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

Publicación 出版著書 La esencia del Japonés
     ”La esencia del Japonés'      - Aprender japonés sin profesor     『日本語のエッセンス』ーひとりでまなぶにほんごー                    ↓
ブログ内検索
ブログ内記事リスト&リンク
By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。