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日本語のエッセンス(30)日本語教育の衒学趣味(知識のひけらかし)について

(*写真:四国八十八箇所霊場巡路の御朱印。いわゆる「お遍路」を帰国した際に巡っている。こうした書の魅力はあるが、もっと世界中の若い世代も参加できるようなシステムを作らなければ、サンティアゴ巡礼路のように世界遺産に指定されるのは難しい)

日本語のエッセンス(30)日本語教育の衒学趣味(知識のひけらかし)について

 

日本語教育関係の文章には、いろいろと難しそうな用語が使われているのが目立ちます。日本語についての文章なのに、矢鱈に英語などの発音をそのまま写したカタカナ語が多いのにも思わず首を傾げてしまいます。

カタカナ語がダメなのではなく、付け焼刃の知識と見せかけの権威をふりかざすだけの姿勢、言わば「薄っぺらな知識のひけらかし」がお粗末なのです。

日本語教育の集まりには必ずこの衒学趣味(ゲンガクシュミ。ディレッタンティズム)がどっかりと真ん中の椅子に座っていて、お陰で私はこうした集まりには距離を置くようになりました。

 

さて今回は、こうした背景を踏まえて、自称日本語教師・研究家の多くが口にする「ムード」「モダリティ」とは何なのか、について触れてみたいと思います。

 

以下、≪≫は引用部分、*は私の注釈です。

 

「ムード」と「モダリティ」

 

『縮刷版 日本語教育事典』(日本語教育学会編 大修館書店1998年第11刷)にはモダリティの見出し語は無く、「ムード」の項目の説明の中で登場するだけです。その「ムード」(寺村秀夫氏の執筆)には次のような説明が見えます。

 

≪事柄・叙述内容、又は、話し相手に対する話し手の態度が一定の文法形式――普通は動詞の形態――によって表現されるとき、それをムード、又は、モダリティという。≫

 

*この事典では「ムード」=「モダリティ」ということです。

 

この事典によると、印欧語文法では「直説法」「仮定法」「命令法」の三つがムードとして挙げられ、これにギリシャ文法の「願望法」を加える人もある、とし、さらに次のように続けています。

 

≪英文法では、また、shall,will,must,shouldなどが、やはり話し手のいろいろな判断のしかたを表すゆえに「ムードの助動詞」と呼ばれ・・・≫

 

*「ムード」あるいは「モダリティ」という用語が日本語教育で取り上げられるのは英文法での解釈だろうと思われます。

 

 ≪具体的に日本語の文のどのような構成要素をそれ(ムード:私註)と認めるかについては、見解が大きく分かれる。≫

 

*つまり、「ムード」(あるいは「モダリティ」)が日本語文の中でどの表現を指すのかは定まっていない、ということになります。

 

さて、『日本語教育重要用語1000』(国立国語研究所 柳澤好昭 石井恵理子 監修。 1998年バベル・プレス発行)を見てみます。ここには「モダリティ」「ムード」の両方の見出し語があります。

 

≪モダリティ・・・法性。陳述内容に対する話し手の意見や態度を表す語彙的、文法的な表現手段。(中略)モダリティのうち語形変化に基づくものをムードという。≫

 

*この本では「モダリティ」と「ムード」は同じものではなく、「モダリティ>ムード」の関係があると言っています。

 

それでは、この本の「ムード」の項目を見てみます。

 

≪ムード・・・陳述内容に対する話し手の主観を表す(法性=モダリティ)には。語彙的手段や文法的手段などさまざまな表現手段があるが、そのうち語形変化に基づくものをムードという。日本語では条件法(~ば/~たら)、推量法(~だろう/~らしい/~ようだ/~そうだ)、命令法、意思・勧誘法、願望法、依頼法がある。・・・≫

 

*この本には各項目の執筆者が明記されていないので執筆者が同一かどうかは分からないが、「モダリティ」と「ムード」との関係の説明(モダリティのうち語形変化に基づくものをムードという)は二つの項目で一致させています。

 

ところが、この本では「モダリティ」と「ムード」の定義で使われている「陳述」の説明が無い。見出し語としてある「陳述副詞」「陳述文」にも「陳述」自体の説明が無いのです。

 

そこで、『日本語教育事典』を見ました。

 

〇山田孝雄の「陳述」の定義・・・≪人間の思想の統一作用(統覚作用)のことである。それが言語上に発表されたものを句(単位文)という。・・・≫

 

〇芳賀綏の「陳述」の定義・・・

(1)≪それに先行して客体的に表現された(カッコ内は略)事柄の内容についての、話し手の態度[断定・推量・疑い・決意・感動・詠嘆・・・など]の言い定めである。≫・・・「述定的陳述」

 

(2)≪事柄の内容や、話し手の態度を、聞き手(時には話し手自身)に向かってもちかけ、伝達する言語表示である。すなわち、[告示・反応を求める・誘い・命令・呼びかけ・応答・・・など]≫・・・「伝達的陳述」

 

*「陳述」についての山田孝雄の定義は引用されている部分だけでは抽象的過ぎる。芳賀綏の定義を見ると、(1)(2)の両方を合わせて言ったものが『日本語教育事典』の「ムード」(=「モダリティ」)の定義と重なる、というよりも、つまりは同じことを言っているように私には思われる。すなわち、「ムード」(=「モダリティ」)=「陳述」ということです。

 

*一方、「陳述」の概念そのものに「話し手の態度」が含まれているのだから、芳賀綏の「陳述」の定義をそのまま『日本語教育重要用語1000』の「モダリティ」の定義文に当てはめてみると、「陳述内容に対する話し手の意見や態度を表す語彙的、文法的な表現手段。」という表現は的確とは言い難い印象を持ちます。

 

*こうして見ると、『日本語教育事典』の「ムード」(=「モダリティ」)の定義のほうが的確性があるように思われます。

 

*それでは、「ムード」(=「モダリティ」)=「陳述」と解釈していいのか?

 

実は『日本語教育事典』の「陳述」の説明の最後に、

≪日本語教育においては、以上のような陳述論争にかかわらず、文末表現に留意させることは重要で・・・≫

 

とあるように、「陳述」の定義にも見解の違いがあるのですから、厄介なことです。

 

ほかの本も見てみます。『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』(松岡弘 監修。2000年第2刷スリーネットワーク発行)の§28「関連づけ」の章の「もう一歩進んでみると」(p289)の中で、野田晴美氏の「のだ」論に言及して、

 

≪「ムード」は「モダリティ」とほぼ同義です。≫

 

とあります。

 

*「ほぼ同義」とはいかにも困った表現です。これでは「ムード」と「モダリティ」の関係を知ることはできません。

 

『日本語文法ハンドブック』には「ムード」の説明は無く、コラムとして「モダリティ」を扱っています(p175)。

 

≪モダリティとは、簡単に言えば、話し手がことがらをどのようにとらえ、どのように述べるかを表すものです。≫

 

*これは易しく定義をしているようで、実は曖昧すぎて分かりにくい。

 

このコラムの最後に、

≪このようにすべての文は客観的なことがら(命題)と、話し手の主観であるモダリティによって構成されているとするのが、現在の文法研究の定説です。≫

 

*これは、時枝誠記が日本に古くから伝わる「詞」(客体的概念的表現)「辞」(話し手の立場の表現)を使って句を説明したものとどう違うのだろうか?

 

*「モダリティ」「ムード」を調べてみての感想・・・日本語教育に「モダリティ」「ムード」などと、英文法の用語を持ち出して何か新しいものでも発見したつもりで、実は足元を見ていないのではないか、草葉の陰で日本語研究の先人たちが哂っているのではないか、という大いなる疑問が湧いてきました。

 

「ムード」「モダリティ」についてもう少し触れようと思います。

 

それは日本語学(ここでは特定の学派は想定していない)というものがあるのなら、その学問的展開の前提となる用語の確認・整理の作業が必須だと思われるからです。「ムード」「モダリティ」はその作業の端緒として面白い素材だと思います。

 

いろいろ調べてみると、この二つの(一つの?)概念が日本語学にとって非常に興味深い研究対象になっているにもかかわらず、その定義が幾重にも誤認されてきた痕が見て取れるのです。

驚くことに、この分野を熱心に研究されてきた方々の間でも定義がまちまちで、しかもそのことを一先ず棚に上げて論を進めている方が少なくないのです。「ムード」「モダリティ」について書いていらっしゃる学者、研究者自身がよく分かっていない、というのが本当のところかも知れません。

 

ここからは「日本語用語」としての「ムード」「モダリティ」の定義がどのように説明されているのかを見てみます。

 

≪≫は引用部分、*は私の注釈です。

 

『日本語がわかる事典』(2000年、林巨樹 池上秋彦 安藤千鶴子 編、東京堂出版)

 

≪モダリティ(執筆者:堀崎葉子氏)  

 

〔定義〕 叙述しようとする事柄に対する、話し手(書き手)の表現時における心的態度をいう。ムード。文法における「法」。叙述の一つ。

 

〔解説〕

1)「ムード」「法」とは、西欧文法の述語で「仮定法」「直説法」「条件法」などのように、話し手の心的態度の違いをしめすために、動詞がとる語形変化のことをいう。

日本語では、意志や推量といった話し手の心的態度を表すのは、助動詞、終助詞などであり、西欧語に見られる「法」とは性質を異にするものであるが、これらをモダリティ(ムード・法)という文法範疇として扱う。

 

*まず、「西欧文法」とは乱暴な括り方。ここは「ラテン文法」、せいぜい「印欧文法」としたい。「心的態度」はモダリティについて説かれる際、よく使われる論文用表現だが、学者の内輪言葉風でいかにも勿体ぶっている印象を受ける。

「気持ち」でその言わんとすることは表現できるのではないだろうか。鎧兜を纏ったような内輪言葉風専門用語は、できるだけ使わないようにするのが開かれた世界としての日本語学になる条件であろう。

 

とにかく、この事典では「モダリティ=ムード=法<文法範疇」ということになる。

 

3)事柄の客観的な叙述に対して、話し手の判断や態度を表す働きを「陳述」と呼ぶことがあるが、その意味で使われる「陳述」はモダリティに相当すると考えられる。 

 

*「陳述=モダリティに相当」だと言う。そこで、同じ事典で「陳述」の項を見てみた。

 

 

 

≪陳述(執筆者 小野正弘氏) 〔定義〕山田孝雄が初めて用いたといわれる用語。文を統一した姿で最終的にまとめあげる働き。

 

〔補説〕「陳述」の語は西欧の言語学に、これと対応する述語を見いだし得ない。日本文法学独自のものである。

 

*「この「陳述」の項の〔補説〕は先の「モダリティ」の項の〔解説〕にあった「陳述=モダリティに相当」の見解とは一致しているとは思われない。同じ本事典でも執筆者の見解の相違が見られるわけである。

 

さて、次に示す「モダリティ」「ムード」の記事は長崎の図書館で調べたものです。≪≫は引用部分、*は私の発言です。

 

『現代言語学辞典』(1988、編者代表 田中晴美、発行 成美堂)

 

modality(法性):文法範疇の一つである法(mood)の意味または特性。モダリティ、様態などともいう。≫

 

mood(法):話し手が叙述内容に対してどのような心的態度をとるかを表わす文法範疇。叙法、話法ともいう。≫

 

*前回の私の投稿の際調べたことと上記の記述を合わせ考えると、言語学用語としての「mood(法)」は具体的な表現形式を指し、「modality(法性)」はその性質、つまり抽象概念を指して言っているようだ。この解釈が適切ならば、

 

mood(法)」という表現形式は「話し手が叙述内容に対してとる心的態度」を示す「modality(法性)」という特性を持っている、とまとめられる。

 

同じ内容を指しながら一方の「mood(法)」は「具体的な表現形式」そのものを指し、もう一方の「modality(法性)」は「抽象的な特性」を指すことから、日本語文法の世界では「ムードとモダリティは同じだ」と言う人と「いや違う」と言う人が出てくる仕組みになっているようだ。

 

ところが日本語の文法の世界では、こうした同じ内容の中の差異とは別に「ムード」と「モダリティ」を内容的に分けて言う人々もいる。上記の『現代言語学辞典』にその辺の事情に触れている箇所があるので次に引用する。

 

≪日本語の文法で、法(私註:mood)という用語は普通、用言の活用形の区別に用いる。…(中略)…例「パンを食べ【る】」(終止法)、「パンを食べる【か】」(疑問法)、「パンを食べ【ろ】」「パンを食べる【な】」(命令法)など、さらに述語が文末で言い切りにならないものに三つの法がある。…(中略…)例:「パンはたべる【が】、バターはつけない」(接続法)、「パンが食べられれ【ば】よいのだが」(仮定法)、「パンを食【べ】、紅茶を飲む」(中止法)など、分類の仕方には種々の説があるが、いずれをとるにしても、日本語文法における法の概念は印欧語における法とは性質が異なる。

印欧諸語における法性を日本語においては主として終助詞やいわゆる情態副詞などによって表現する。≫

 

そしてこの項の筆者は次のように結んでいる。

≪法を形態論的な形式によるものに限定するならば、日本語は多くの印欧諸語のような体系的な法という文法的範疇をもっていないことになる。≫

 

*日本語の文法では「ムード」と「モダリティ」の用語が使い手によって異なった概念になっていることがある。その異なる概念を前提にして論文などが書かれるとしたら、読み手はたまったものではない。ましてや、外国人の日本語研究者はお手上げである。

 

mood」「modality」はまず「論理学」用語と「言語学」用語の識別、それから言語学用語の中で「印欧語学」用語と「英語学」用語の識別、そして、それらと歴史的に浅い「日本語学」に当てはめた場合の用語との識別をきちんとしたうえで整理し直さなければ、とりわけ日本語文法の若い研究者や外国人研究者、さらには研究論文の読み手に、不必要な混乱を生じさせることになる。

日本語学の専門用語は論理学と言語学を混同した誤認や印欧語と英語学を混同した誤認が入り混じって、平然と日本語学の世界に入り込んでいる、というのが、実情ではないだろうか。ひとり「ムード」「モダリティ」だけの問題ではない。

 

「ムード」と「モダリティ」についてさらに調べたことを報告しておきます。

 

『モダリティの文法』(益岡隆志、1991年くろしお出版)

29≪1、はじめに:「ムード」は動詞類の屈折体系に関わる文法範疇のこととする。この立場からすると、「ムード」は屈折の体系を有する類型の言語に対してのみ有意味な概念である。例えば、スペイン語は直接法(私註:正しくは「直説法」)、接続法、命令法の区別が動詞の屈折に関与するといった具合である。

 

これに対して、「モダリティ」は言語の個別的、類型的なあり方に縛られない、一般性の高い概念として定める。すなわち、「モダリティ」は、その現れ方こそ言語によって様々であろうが、何らかの形ですべての言語に関わり得る文法概念と考えたい。≫

 

*この本では「ムード」と「モダリティ」は別のもののように扱っている印象があるが、「モダリティ」については最後に「・・・と考えたい。」と結んでいる。要するに、はっきり分からないが自分はこう考えたい、ということである。ここの説明を見る限りでは、私が先の投稿で述べておいたように、「モダリティ」は「ムード」の抽象的特性を表わす表現と考えたほうが無理が無いのではないか。

 

とにかく、この本の著者は、「ムード」については日本語を対象とする場合は有意味な概念ではない、としている。

 

こうして観てくると、「日本語学で専門用語として度々登場する「ムード」「モダリティ」の語の「定義」が迷路に入り込んでしまっている実情がよく分かってきます。

 

自分自身よく分からないカタカナ語や専門用語らしきものを、ただひけらかすだけの非生産的行為は、いわゆる衒学趣味(ディレッタンティズム)と言われます。

この種の趣味はこれからの日本語教育には要りません。

 


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tag : 日本語 日本語教育 国語 衒学趣味 ディレっタンティズム ムード モダリティ

 
日本語のエッセンス(29)なぜ「国語」と「日本語」は手を結ばないのか
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(*写真:バルセロナ、ランブラス通りにある銀行の日本趣味? ドラゴンは東洋趣味としても、その下の傘はなんだろう?)



日本語のエッセンス(29)なぜ「国語」と「日本語」は手を結ばないのか

 

国語教育は、学習者の母語が日本語であることを前提に、読む・書く・話す・聞く、の言語の四技能と言語感覚の育成を目的として掲げている。すなわち、国語教育は言語教育であるはずである。しかし、実際は、文学的な教材を「読む」ことに重点が置かれてきた。



従来の定義からすると、日本語を母語としない主に成人のための第二言語教育が日本語教育であるならば、国語教育とは日本語を母語とする言語形成期の児童・生徒のための日本語の教育、と言える。しかし、実際の国語教育を見ると、むしろ母語教育の周辺である文学解釈や文学鑑賞に大部分を費やしている。こうした国語教育の在り方は、今日、国語教育の現場における帰国児童・生徒や外国籍児童・生徒等の増加によって、「国語教育に日本語教育が参戦」せざるを得ない状況に変わりつつある。

 

また、日本語教育の現場においても、日本語とは本質的に大きく異なる言語である英語を規範とする言語学の理論に振り回され、日本語の本質を置き去りにしていく傾向が危惧される。従って、第二言語教育としての日本語教育の現場もまた、国語学・国語教育で積み重ねられてきた日本語についての知恵に学ぶ姿勢が求められることになる。

 


国語教育と日本語教育が互いの共通点と相違点を認識しつつ、より強い連携意識を持ち、互いに謙虚に学びあう時機を失ってはなるまい。その時機がまさに到来しているという双方の関係者の自覚が、双方の分野を発展させ豊かに成熟させていく前提となるだろう。

 

「国語」が意味するものとしては、「それぞれの国の中心的公用語」、「日本国の中心的言語としての日本語」、「日本の学校教育で学ぶ科目の一つとしての国語科」などがある。一方、「日本語」が意味するところは、「世界の言語の中の一言語としての名称」、「外国人や帰国児童生徒などが学ぶ科目の一つとしての日本語科」、「主に日本人が学ぶ大学の専攻やコースの名称としての日本語科」などが挙げられる。

 


学校教育における「国語」教科は、主に日本語が学習者の母語であることを前提に、「言語技能」と「言語感覚」の育成を目的に教育されるものである。しかし、長年、文学的な教材を「読む」ことに重点が置かれてきたことも事実としてある。

  

一方、教科名としての「日本語」は、日本語を母語としない学習者や、日本語が母語としての第一言語のレベルに達していない学習者を対象に、主として「言語技能」の育成を目的に教育され、特に、話すことと聞くこと、すなわち会話でのコミュニケーション能力の育成に重点が置かれてきた。教科としての「日本語」はまた、日本の文化・社会・歴史、そして現代事情、といった言語としての日本語が持っている「背景」も含んでいると思われる。したがって、いわゆる「日本事情」の学習も含めて授業が行われることが多い。

 


「国語」「日本語」は「日本語母語者が日本社会で日常、コミュニケーションのために使用している言語」という点では共通の意味合いを持っているが、その名称から聞こえる響き・ニュアンスはいささか趣を異にしている。「国語」という語には、根底に「国家の言語」又は「国民の言語」という意味が付きまとう。これに対して、「日本語」という語には、「世界の諸言語の中の一つの言語」という意味が読み取れる。つまり、この二つの呼称には、共通項はあるにせよ、厳密には区別されるものである、という認識が今日では定着している。

 


日本語を「自国(日本国)の言語」としての「国語」と見る立場から研究する「国語学」に対して、日本語を多くの世界言語のうちの一つと見る立場から研究する学問体系は「日本語学」と称されている。それぞれの学問分野の事情を次にまとめておく。

 

伝統的に日本語そのものが抱えている言語事象の研究を行い、他言語との対照・比較は含まない、のが一般的な「国語学」のイメージである。元来、「国語」とは、「一国のことば」「和語」といった意味で用いられていたものが、明治26年8月に開かれた尋常中学校・尋常師範中学校教の国語教員を対象とした講習会での井上毅の演説などが大きな影響を及ぼし、この明治二十年代を境に「日本国家内のことば」という限定的な意味付けがなされるようになった。そして、そのような意味での「国語」の内部における言語事象を扱う研究を明治時代以降「国語学」と称するようになったのである。

 

日本語を観察・内省して、そこに現れる規則・法則を見出そうとする営みは、古く奈良時代から見られる。そこから、中世歌学における「テニヲハ」研究、江戸時代における「国学」の国語研究というように、その営みは続いてきた。しかし、それらの研究は、「歌を詠む」ための秘伝を追究することが目的であったり、「神代」のことをありのままに知ろうとするためのものであった。すなわち、日本語という言語を言語そのものとして追究するのではなく、他の目的に、その「手段として国語を研究」したのであった。これが、近代に入り、上田万年によって基礎が確立され、昭和になってソシュールの言語理論の影響の下、日本語を言語そのものとして研究しようとする近代の「国語学」へと形成されていくのである。

 


「自国日本のことば」を研究するという一種排他的なニュアンスを免れない「国語学」という名称に対して、一般言語学にも参与し得る「日本語学」という名称を提唱したのは亀井孝であった。(亀井孝『日本語学のために』(吉川弘文館、一九七一年)  

 

だが、戦前戦後を通じて国語学は海外の言語研究・言語理論に対して排他的であったことはなく、実質的に「国語学」を「日本語学」と改称する必要があるのか、という見方もある。

 

しかしながら、「国際化」が叫ばれ、日本の経済発展に伴う海外の日本語研修熱が高まるにつれ、従来の自国民の目から自国語を見る国語学的発想とは異なった「外国人の日本語学習」という立場から日本語を見る日本語教育の観点が加わり、「日本語学」という名称が市民権を得始めている、のも事実であろう。

 

現行の国語教育の概念そのものの改革に、日本語教育が得てきた言語教育の知恵を取り入れて、日本人の日本語力をより向上させる国語教育を目指す。すなわち、伝統的な国語教育の中で行われている言語(日本語)教育に「日本語を母語としない人々を対象とする日本語教育」の成果を取り入れ、日本語を母語とする生徒たちに「世界の中の一言語としての日本語」を覚醒させ、日本語の豊かさ深さを学習させることを目的とする。

 

今日の「国語」教育は文学作品の解釈に偏りすぎていて、肝心の日本語そのものを一言語としてきちんと身に付けさせる教育が質量共にもっとなされるべきである。日本での13年間の「国語」教育の後、海外(スペイン)で17年間外国人に「日本語」を教え、再び二十年ぶりに日本で国語を教えてみた際、その制度や中身は三十数年前に教壇に立ったころの国語教育と驚くほど変わっていない、と感じたことを覚えている。

 



 

スペインから日本に戻ってきて3年間「国語」教育に携わり、また1年間メキシコの日本人学校で「国語」を、地元の語学学校で「日本語」を教える、という形で両分野に同時に携わる、という経験を持った。その後、再びスペインで日本語を教えている。

 

これらの経験を通して、国語教育と日本語教育の双方についての上記の私の考えはますます強くなっていった。

 

国語教育の中身とやり方が少なくともこの四十数年間、ほとんど変ってきていない一方で、ここ十数年の間に小・中学校における在日外国人の子供たちの日本語教育の問題が日本全国各地で噴出してきている。こういう問題は噴出するまでの相当長い間、沸点へ向けて煮立っていたことは、想像に難くない。その当然の帰結として、国語教育と日本語教育とは否応なしに関わりを持たざるを得ない状況を迎えてきているのである。

 

「国語教育」と「日本語教育」における戦時中の束の間の連携と違い、今度はいわゆるニューカマー(1980年代以降に来日し、定住した外国人)と呼ばれる人々など長期に日本に滞在する外国人及びその子供たちとの共生といった新たな社会的要請のために、日本語教育と国語教育は本気で連携を図るべき時機がやってきたのである。

 

国語教育の場における「異文化接触」あるいは「日本語学習者の母語(第一言語)とアイデンティティーの保持」等の問題解決のためにも関係領域の学際的研究は欠かせなくなってきている。そうした研究のあり方を探るためにも、日本語教育と国語学・国語教育との関係はもう一歩踏み出し、更なる連携と互いの分野への敬意と忌憚のない論議が活性化されなければならない時機が来ていると言えよう。

 

さて、「国語」と「日本語」の関係に言及した先人たちの足跡を確認してみよう。 

主に日本語の非母語者を対象とする日本語教育が日本語の母語者を対象とする国語教育に与えた影響、逆に国語教育が日本語教育に与えた影響を歴史的に研究したものは、関正昭の下記のような研究のほかにはほとんど見られない(松岡弘・五味政信『開かれた日本語教育の扉』2005)。こうした現状には、日本語教育と国語教育のそれぞれの縄張り意識、あるいは互いに無関心を装う閉ざされた自尊心が関係していなくもない。

 

「松下大三郎と日本語教育」『中京国文学』第5号 1986

「三矢重松・松尾捨治朗と日本語教育」『中京国文学』第7号 1988

「日本語教育学の系譜」『愛知教育大学教科教育センター研究報告』第13号 1989

「日本語教育史の中の国語学」『日本語論考』東京都立大学 大島一郎教授退官記念論集 桜楓社 1991

「『文型』再考―戦時中の文型研究をめぐって―」『平山輝男博士米寿記念論集 日本語研究諸領域の視点』明治書院1996

「再考、まぼろしの『日本言語教育』」『中京国文学』第20号 2001

明治維新前後の来日外国人による日本語研究や19世紀後半の欧州諸国における日本語学習・研究の成果は、以後の日本人による国語学研究に大きく貢献した。また、太平洋戦争の最中に国語教育・国語学研究の専門家が日本語教育の方法論・政策論・教材の開発に取り組んだことがあった。大東亜共栄圏における公用語としての外国人への日本語教育を目指して日本語教育と国語教育・国語学の専門家が連携したのである。

 

しかし、両者の密接な関係はそれから数年を待たずして、敗戦により費えてしまった。それから、つい最近まで、日本語教育と国語学・国語教育は互いの異質性のみを意識し合う関係にあり、連携は難しい状況にあった。

 

国語史、国語学史、国語教育史の研究を考えても、日本語教育に触れなければならないのは自明のことであり、同様に、豊富な実践経験や日本語研究が積み重ねられてきた国語教育の財産に日本語教育が恩恵を受けられることは日本語教育が前へ進むために必要不可欠であることは火を見るよりも明らかなはずだから、両者の連携は必然のことである。

 

最近、両者の連携を試みる動きが出てきたことは、暗闇の中のわずかな光明として捉えたい。遅きに失した感も否めないが、今からでも取り返しはつくのである。

 

一方、かつてアイヌ語話者や琉球語話者に対して行われた「標準語教育」の歴史も日本語教育史の中で、国語教育と日本語教育の関係を考える上で多くの示唆を与えてくれるだろう。範囲を広げて、日本各地での方言と「標準語」の関係にも注目しておく必要がある、ということになるだろう。

 

かつて日本語を母語としない外国人が主体的に日本語を学習し研究した時代から、19世紀末(日本の植民地時代の台湾における日本語教育)以降、日本語を母語とする日本人教師が主導権を握り日本語を母語としない人々に対して開始した日本語教育の時代に移行した、という経緯がある。

 

日本語の他国への普及の目的には歴史的に誤りもあったが、明確にしておきたいのは、これからの国語教育と日本語教育の関係の目的は、言うまでもないが、他国を治めるというものではなく、「日本語を普及することによって日本文化の世界を世界の人々に知ってもらい、異文化間での無益な誤解を取り除き、相互のコミュニケーションをさらにスムーズにさせ、互いの価値観の懐を広げ人生をより豊かに深く楽しんでもらうため」のものである。

 

日本の国語教科書では、すべての言語事項は理解・表現の言語活動の中で扱うのが前提となっていて、小学校にも中学校にも言語あるいは文法の独立した教科書はない(因みに、フランスでは小学校から教科書として『文法』がある)。教育課程では、国語科の在り方を「言語の教育としての立場をいっそう明確にする」と強調してはいるものの、現状の国語教育では、「日本語という言語」の教育は「表現・理解の指導」の中に埋没してしまっているのが実情である。

 

国語の教育が母国語の教育であることを考えれば、単に理解・表現のための言語技能を養うに留まらず、自国の代表的言語、即ち「日本語そのものについて、より深い理解を持たせ自覚させる教育」が教科書の中で具体化されるべきである。               

 

近来、日本人大学生に対する「日本語教育」が試みられている。ここで言う「日本語教育」とは、国語教育で行われてきた枠組みを超えて、日本語を第一言語として使い自己を表現するのに必要な日本語の教育、という意味である。つまり、これは従来「日本語を母語としない人々を対象としてきた日本語教育」を視野に入れたものである。

 

日本人は従来から論理的な説明が下手だと言われてきた。これは取り分け、国際舞台での評価において顕著である。それでも、日本人はこの評価を深刻には受け止めない傾向が見られる。日本には昔から「とつとつとした話し方」「口下手」などの評価は、プラス評価として受け止める傾向さえある。逆に「口がうまい」「雄弁」などの評価は、概してその人格に疑問符を付けているとさえ受け取られる。

 

しかしながら、これからの日本人は、どうすれば相手に自分の意思をきちんと伝えられるかを、国際化云々を言う前に、まず日本語で身に付ける訓練・教育が必要なことは、自明のことであり、日本社会および学校教育の中で、きちんとした目標と見通しを持って位置づけられ、実現されるべきものである。

 

この「日本人の日本語の向上」は実は私たちが思っているより重要で深刻な問題なのである。これまでの日本の国語教育の枠組みでは実現されてこなかったのだから、思い切った発想の転換が必要であろう。

 

これまで国語教育が無視、あるいは理由のない敬遠をしてきた「日本語教育」がすぐ傍にあるではないか、と気付くべきであって、国語教育は、日本語の非母語者を相手に奮闘しその経験と成果を積み重ねてきた日本語教育に、今こそ学ぶ時期が来ている、と言えるだろう。

 

現状の国語教育に見られる問題点の多くは、これまでの日本の教育の問題点から来ている。例えば、国語の授業での教師からの一方通行・生徒の受身性を挙げることができる。それは教師の腕次第、とよく言われるが、教科書の構成や評価システム、あるいは教員組織や学校運営などによって、教師個人ではどうにもならない教育現場の「金縛り」的状況に、国語教育も当然縛られ、身動きが取れない、などの問題点を指摘できる。

 

日本には明治期以来、国語学者による様々な文法論がある。その主たる論は、表面的には先行学説を継承せず、批判もせず、それぞれ独自に立論されている形になっている。山田(孝雄)文法、松下(大三郎)文法、橋本(新吉)文法、時枝(誠記)文法などがあり、それぞれの信望者がいる。これらは一括して「伝統文学」とも呼ばれている。いわば、日本で独自に発達した文法、という意識のもとで受け入れられているようである。

 

中世の歌人や連歌師たちは、平安初期の『古今和歌集』などと同じ言葉遣いで和歌や連歌を作るために「テニヲハ」(助詞・助動詞)を研究した。テニヲハの多くは活用語に後接するので、近世の「国学者」たちは「活用研究」を「テニヲハ」研究と結合させ、「文法」として体系化した。これが「国文法」の原型である。

 

それを橋本新吉の立場に基づいて体系化したものが、今日、「学校文法」として、教科書に載り、実際、教室で日本の生徒たちに教えられているものである。ここには、「世界の言語の中の一つである日本語」としての観点は入らず、日本語教育が悪戦苦闘して積み上げてきた「言語そのもの」を見る目が決定的に欠けたまま、現在に至っている、と言えよう。

 

日本の国語教科書は、前述のように少なくともここ四十年間は大きな変化がない。日本の国語教育が変わるとすれば、この国語教科書が根本的に変わる時ではないだろうか。客観的な自己評価は他を観察し自他を比較吟味するところから始まる。 

 

『教科書からみた教育課程の国際比較 2 国語科編』(昭和59年6月30日発行、教科書センター編)「第4章国別にみた調査結果 第6節 まとめ」には、この調査研究で気が付いたことの第一として、「各国とも、とくに初等教育の段階において言語教育を重視していること」を挙げている。

 

諸外国では国語学習を言語学習(話し方、聞き方、書き方、読み方)と文学学習(読書)との二層で行われることが多い (『デンマークの小学校低学年の国語教科書に関する研究』平成20年3月31日発行、諸外国の教科書に関する調査研究委員会、p57)。 国語学習を言語編と文学編の別立てにするのは、日本でも戦後、昭和20年代後半、中学校、高校で実施されたことがあるが、言語編教科書が次第に衰退する中で、結果的には、これらを合わせた「総合編」教科書になっていった。

 

昭和26年10月、「国語科の教科書は、学習資料を組織的に集成したものであるから、国語科として1本のものでもよいし、文学編・言語編などに分けたものでもよい。」(『中学校高等学校学習指導要領国語科編(試案)』)と、国語教科書についての言及があり、分冊型(文学編・言語編)教科書の道が開かれた。これを受けて作成された「言語編」教科書の一つに『高等言語』(昭和29年度、好学社)があったが、その巻一の「目次」は次のようになっている。

 

<引用始め>―ことばの文化(ラジオを聞く、放送のしかた、演劇と映画、新聞・雑誌について)/研究と報告(図書館の利用、調査・研究の報告文の書き方、聞き手を前にしての報告、話の聞き方)/文章をめぐって(文章についての考察、小説とは何か)/創作のよろこび(創作の動機、短歌管見、直接経験から-俳句に入る道-)/国語のほねぐみ-文法とは何か-<引用終り>

 

しかし、分冊型教科書(言語編)へのこうした意欲的な取り組みも、その成果を充分に見ないまま終息してしまったのである。その原因として、

 

1)言語編の教材内容の吟味の不十分さ

2)教材に対する効果的な指導法の未確立

3)文学編との関連のさせ方の不徹底さ

などが指摘されている。言語編教科書を充分に活用させる環境づくりが不十分だったと言えよう。

 

日本の国語教科書が建前とは裏腹に「文学鑑賞」重視の状態が続き、延いては「言語教育」が根付かないできたのは、上記の理由のほかに、教師および保護者の「国語教育」に対する意識が大いに影響しているからではないかと思われる。

 

<「義務教育教科書に関する教師の意識及び保護者の要望についての調査」最終報告書の概要>(伊勢呂裕史、財団法人 教科書研究センター『センター通信No91』p4、2008年9月20日)には、下記のような報告がなされている。この調査は、研究者・教科書会社の編集者・小中学校の関係者からなる調査委員会を設け、平成19年9月から10月にかけて実施されたものである。

 

調査は無作為抽出により、教師は、小学校205校の教務主任と第5学年の学年主任、中学校404校の国語、社会、数学、理科、英語の主任を、保護者は、小中学校とも各県1校の1学級分の保護者を対象としたものである。

 

そのうち、国語についての報告を紹介する。

 

〇小学校国語教科書への要望については、文学作品を重視した「文学的文章では定番教材の維持」が一番多い。

 

〇新指導要領で小学校に導入される古典については、「遊びの中で古典に触れさせる」という意見が圧倒的。

 

〇中学校の「読むこと」の教材については、近代文学の名作など文学的文章への期待が依然大きい。

 

このほかに、<まとめ・提言>の中で国語については、次のような記述がある。


〇言語活動については、子供の身近に起こりうる言語活動を自然な「場」を想定してトピック化し、その中で子供の言語運用能力の拡充が図れるような教材とする。

〇国語科における基礎・基本である漢字指導と文法指導については、教科書において系統化が望まれている。

 

「国語教科・国語教科書」に対するこうした様々な意識調査でも分かるように、現場の教師も、保護者も、自分が受けてきた国語教育の枠から抜け切れずに、保守的な姿勢を崩さないという印象がある。時代はすでに「日本語教育」との連携が模索されているにもかかわらず、国語教師や一般の保護者達には「日本語教育」という概念・事実そのものを知らないか、極めて無関心であると言えよう。

 

しかしながら、国際社会の潮流に見られるように、日本の国語教育でも言語教育がきちんと行われるためにも、「言語編」があることが望ましい、と言えるだろう。そうでなければ、日本の国語教育はどうしても「文学教材を読む」ことを中心に展開してしまう傾向から脱することができないように思われる。

 

また、前述のような経緯もあり、現在の日本の国語学習は名目的には「文学・言語・文法」を合わせた内容の「総合編」になっているが、その実情は文学鑑賞、それも、教師用教科書ガイドにある「答え」をテストのために生徒に暗記させるためのものになっている、と言っても過言ではあるまい。

 

このような「総合編」の国語では、諸外国に見られるような「各教科のカリキュラムの中心であることを意識して幅の広い内容を取り上げていくという考え」すなわち「国語の全科的性格」が埋没し、その意識が極めて弱くなっていることが、指摘できよう。

 

もう一つ、日本語を母語とする学習者を対象とする国語教育の中では見落とされがちだが、今日の日本人の日本語についての知識や運用能力の乏しさはことあるごとに指摘されていることは、見逃してはならないだろう。すなわち、この問題はたんに学校教育だけの問題ではなく、日本の社会問題として捉える視点が必要なのである。

 

しかしながら、私は、この問題に対処するには、まず学校教育の「国語」の内容を、日本語教育の経験と成果を生かして、次のように大胆に変える必要性があることを訴えたい。

 

1)国語学習が全教科の中心であるという性格を一層明確にし、その特徴・使命を具現化するカリキュラムと人的配備をする。

2)国語科教科書を総合編の形から「言語編」と「文学編」の二本立てにする。

3)「文学編」においても、現状の解釈偏重から言語教育とのバランスを考えた内容にする。

4)とくに「言語編」には日本語教育で得てきた成果を十分に取り入れる。

 

日本の国語教育が国際社会の中ではどのような姿を見せるのか、それを知ることも、今後の国語教育改善のために重要な視点ではなかろうか。

 

因みに、OECDが実施した生徒の学習到達度調査、いわゆるPISA調査の読解力問題、例えば2006年調査問題例の「落書きに関する問題」を見てみると、読解を通しての解釈に留まらず、自分の意見とその理由を自由記述で求められている。別の問いでは、相反する二つの意見について、手紙としての良し悪しを問うている。主張を明確に述べているか、読み手に伝わりやすいかとか、そうした観点での判断を求められる。これも、従来の日本の伝統的な国語教育の読解力の問いにはなかったものと言えよう。

 

15歳生徒を対象とした2003年のPISA(経済協力開発機構の生徒の学習到達度調査)の「読解力」については、日本は200年の8位から14位に下がり、読解力・国語力の低下が社会問題となった。そこで、日本の中央教育審議会教育課程部会は、小中学校では「国語がすべての教科の基礎である」と位置づけ、国語の授業時間を増加させる方針を出した(『日経新聞』2006年2月13日夕刊)。

 

こうした国際的に普遍性を持った「読解力」が求められる今日、「国語」の内容は抜本的に見直されなければならない時期に来ていると言わざるを得ない。教授内容としての「国語」と「日本語」の相互補完についての研究は早急に進められるべきと考える。

 

ところで、PISAの学力調査で得点の高かったフィンランドが脚光を浴びるかたちになっているが、北欧5か国間(デンマーク・フィンランド・アイスランド・ノルウェー・スウェーデン)には、文化協力に関する5か国の条約があり、教育制度や教育内容に関しては絶えず情報交換をし、学び合っている。その北欧では、デンマークの国語読本がきわめて優れた教科書として評価されていることを知り、「諸外国の教科書に関する調査研究委員会デンマーク部会」のメンバーが「デンマークの小学校低学年の国語教科書に関する研究」をまとめている。その報告(藤村和男、『センター通信No91』p8、2008年9月20日)を紹介しておこう。

 

報告によれば、諸外国では、ランゲージアーツ(言語学習)とリーディング(読本)との2本立てで国語学習が行われることが多い。この報告の執筆者(藤村氏)が知る限り、日本以外の先進国では、すべて2本立てで国語学習が行われており、教科書も2本立てとなっている、ということである。すなわち、国語学習を「言語学習」(話し方・聞き方・書き方・読み方=方法論獲得の養成)と「文学学習」(読書=情操力、思考力、論理力の養成)との二層で行う考え方である。

 

「言語学習」が一本化していない日本の国語教育に比べて、二層教育の諸外国の国語教育では読書量はどうか、という疑問が湧くが、しかし、結果としては、外国のほうが読書量が日本よりはるかに多くなっていると言う。これは、国語学習とは基本的にたくさんの作品を読むことだという文化的伝統があるからではないだろうか、と伝えている。

 

藤村は報告を次のように締め括っている。

「デンマークだけでなく、フィンランドの低学年用の国語教科書についてもいえることは、生きた人間を題材にした作品がきわめて多いということである。」「親子の会話の仕方や礼儀などが自然に身につくように配慮されている。単に言葉を学ぶだけではなく、コミュニケーションの仕方をも学び、これからの社会に生きる力を養うよう配慮されている」「日本の国語は、アメリカやヨーロッパのようにカリキュラムの中心にある教科であることを配慮して幅の広い内容を取り上げてゆくという考え方が弱いように思われる」

 

これらを初めとして、さまざまな調査や報告から導かれる結論は、日本の国語教育に対して、「言語教育の系統化」「読書量」「国語は全教科の基本・中心」ということが鍵になるだろう。

 

歴史的に見ると、日本語教育を経験した国語学者が、自らの研究にその実践で得たことを生かしている例は数多く見られる。一方、国語学の理論が日本語教育に大きな影響を与えたことは極めて少なかった。しかし、日本語を母語としない人々への日本語教育は現場の授業の実践効果を追求することよりも新しい理論を追いかけることにエネルギーを費やしている傾向があり、効果的な授業展開の実践研究を積み重ねて来ている国語教育に学ぶべき点がある。

 

「国語学」「日本語学」が《理論》の学でするとすれば、語学教育はその《実践》応用の部門であり、これらの理論と実践を通して打ち立てられるのが「語学教授法理論」である。日本語教育に初めて本格的に語学教授法理論が導入されたのは1898年に山口喜一郎によって取り入れられたフランソワ. グアン(François Gouin)の「グアン式教授法」であった。日本語教育では、それ以前は専ら対訳法が行われていたのである。

 

グアンの方法はナチュラルメソッドと呼ばれ、「幼児が言語を習得する自然の過程を外国語教育に適用させようとする方法」であった。グアンは、文学ではなく「日常的な言葉」を学習する必要性と「動詞」の重要性を指摘し、翻訳を介さずに「直接、目標言語にアクセスする方法」を提案した。この方法は20世紀の「直接法」へと繋がっていく。

 

直接法は、学習者の母語を介さずに目標言語だけで学習が行われ、文法規則は帰納法的に理解させる方法がとられる。学習初期では文字を用いず口頭訓練が中心になるので、時間がかかるのが特徴といえる。

 

1950年ごろアメリカで開発された「オーディオ・リンガル・アプローチ」が日本でも1970年代に大きな影響を与えた。この理論は、「構造言語学」と「行動心理学」に基づいており、構造中心の文型練習が中心で、丸暗記に至るまでの過剰学習を通して正確さが追及される。この構造的文型練習(パターンプラクティス)は、内容の違いの部分に同じ構造を見出す迅速な類推の能力を求めており、現実のコミュニケーションにおいて反射的に対応できる能力を育てることに目標をおいている。

 

一方、フランスでは1950~60年にかけて、「ソシュールの理論」に基づいた「SGAVメソッド」が提唱された。この理論は、「基礎語彙」の調査に従って使用頻度の高い語彙が採用された。文法学習は、演繹法的な方法がとられ、教師は全面的にメソッドの指示に従い、学習者への強い指導力が求められた。

 

しかし、この理論は1960~70年には批判の対象となり、1974年には欧州評議会が「構造言語学ではなく、発話行為と、社会言語学の分野にも注意を払った実用的な言語学の原則に基づく言語の特徴の描写」をプロジェクトとし、その最終的な目標を、「学習者にコミュニケーション能力を育成し、自律性を持たせる」こととしている。

 

こうした状況の中で、オーディオ・リンガル・アプローチの欠点を意識したメソッド「コミュニカティブ・アプローチ」が1970年代初めに提唱された。理解可能なレベルの発音の許容、過度にならない程度の母語の使用の容認、初日からの読み書きの学習を通して、話す・聞く・読む・書く、の4技能のバランスをとる、学習者を中心に据え、教師は知識の保有者としてではなく、学習者の活動を補助・促進する役割を担う、ことなどが、この理論の特徴である。

 

こうした様々な理論に、日本語教育が影響され続け、振り回されてきた、という事実も押さえておく必要があるだろう。

 

そういう点では、国語教育の現場の地道に積み重ねられてきた実践研究のノウハウを大いに参考にすべきだろう。

 

こうして観ると、国語教育、日本語教育の両分野とも、大きな発想の転換と思い切った改革が必要なことは言うまでもない。このままの方向へ進んでいくことは、何よりも国語の生徒や日本語学習者に対して申し訳ない、という気持ちになる。視野を広げ、形式主義に陥らずに、授業第一の教育改革を現場の教師一人ひとりが実践していくことが、両分野の現状を変えていく力になる.



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tag : 日本語 日本語教育 国語 連携 改革

 
日本語のエッセンス(28)「日曜日まで休みがない」だと、日曜日は休みなのか?

(*写真: 日本のダンゴ ―●●●―に似ているが、中に白いダンゴがあるのか。外側のアンコのようなものがツルンとしている・・・チョコレートだろうか。でも美味しそうだ)


日本語のエッセンス(28)「日曜日まで休みがない」だと、日曜日は休みなのか?

 

>次の日曜日にやっと休める場合、「土曜日まで休みがない」と言えばいいのでしょうか?それとも「日曜日まで休みがない」と言えばいいのでしょうか?

 

やまさん、こんにちは。

 例えば店に「大晦日まで開いています」とあれば大晦日は開いています。このように肯定文では、動作や状態の継続到達点として「まで」の前に表現されている時間が含まれます。

 

ところが「…まで~ない」の否定文では、「…になって初めて~する」の意味に捉えられることが多いのです。したがって一般的には「次の日曜日にやっと休める」場合の表現としては「日曜日まで休みがない」が使われることが多いのではないかと思われます。

 

この否定文での「まで」の解釈(…になって初めて~する)はどうして生まれたのでしょうか?ちょっと考えてみましょう。

 

「日曜日まで休みがない」は「日曜日(の一日が終わる)まで休みがない」のか「日曜日(の一日が始まる/になる)まで【は】休みがない」(つまり、日曜日が始まった後すぐに休みになる)のか、認識の誤差が生じやすい表現です。誤差が生じるのは、一日が線として捉えられるからです。

 

この誤差は、点として捉える時間について言う場合はほとんど生じないと言えるほど小さくなります。例えば「5時まで休みがない」は「5時」が点として捉えられているので「休みのない状態は5時ちょうどまで続くが、5時を少しでも過ぎれば(極端に言うと百万分の一秒でも過ぎれば)休みになる」ので「5時から休みになる」と解釈されてもほとんど問題は生じないわけです。

 

この「点としての時間」から類推されて「日曜日まで休みがない」の認識の誤差が生まれるものと思われます。これは「日」以外の「週、月、年」などの線として捉えられる時間を扱った場合でも生じる現象です。

 
 この誤差は人間の時間に対する基本的な心理傾向から生まれるものですから、他の言語でも同様の問題が起こりうると想像されます。例えばスペイン語のhasta(まで)を使った場合でも" No vendrá hasta mañana "(彼は明日まで来ないだろう)は「彼は明日にならないと来ないだろう」と認識されます。

つまり「彼は明日来るだろう」ということです。

 

以上を考慮すると、ご質問の事例で「~まで休みがない」を使って誤解の少ない表現を探すと、「日曜日【になる】まで【は】休みがない」と言うか「土曜日【が終わる】まで休みがない」と【 】内を補うことになるでしょうが、「土曜日までずっと仕事がある」か「日曜日にようやく休みがとれる」のように他の表現を使ったほうが、認識の誤差は少ないと思います。


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tag : 日本語 日本語教育 国語 まで

 
日本語のエッセンス(27)「知らない人 / 知っていない人」?:日本語の問題児「知る」の謎を探る。

(*写真:スペインのファンシーグッズ売り場。日本の「カワイイ」は世界では新鮮に映る。日本で言う「きもカワイイ」が世界のファンシーの標準だからかもしれない。「KAWAII」はもはや国際語となりつつある)


日本語のエッセンス(27)「知らない人 / 知っていない人」?:日本語の問題児「知る」の謎を探る。

 

動詞「知る」は日本語の動詞の中でも際立って特殊な立ち位置に有り、その振る舞いも独自すぎる。「知る」に秘められた謎を解くことは、日本語の奥に秘められた、何かとんでもない秘密に触れるのかもしれない。

 

ひょっとすると、「知る」はこれまでの日本語の定説を覆すような「パンドラの匣(はこ)」かもしれない、この箱を開けたら、日本語はどんな姿を現すのだろうか。

ともかく、この動詞に対峙(たいじ)してみる必要があるだろう。

 

「知る」の否定形は「知らない」である。「知る」は「ある情報を得る」という行為であるから、その情報を得た結果の状態は「知っている」である。日常生活では知ったあとの状態を話題にすることが普通だから、「あのこと、知っている?」というように「知る」よりも「知っている」を多く使う。

 

「それについて、知っていない?」

というように「知っていない」を使うだろうか。違和感を持つ人が多いと思う。ここは

「それについて、知らない?」

 

と言うのが自然な現代日本語ということになるだろう。

つまり「知っている」に対応する否定形は一般的には「知らない」なのである。

 

もう一度確かめると「知る-知らない」の対(つい)は「知っている-知っていない」の対をつくるはずである。しかし今述べたように「知っている」に「機能」上で対応する否定形は一般的に「知らない」なのである。

 

「知る」の秘密を解く鍵のひとつはこの「知っている-知らない」のペアがなぜ成り立つのか、ということである。ここから日本語の秘密が篭められていると思われる「知る」という箱に、まず覗き穴が空けられるかどうか、試みたいと思う。

 

「知る」に似た性格を持つ動詞に「死ぬ」がある。「知る」は「行為・動作・作用が瞬間的に完了してその結果の状態が変わらない」性格、すなわち「瞬間動詞」と呼ばれる動詞である。「結果動詞」という分類の仕方もあるが、ここでは「瞬間動詞」として扱うことにする。

 

つまり「知るという行為は知らない状態から知った状態になるまでが瞬間的であり、その知った状態は基本的には知らない状態には戻れない」のである。

 

「死ぬ」もまた「生きている状態から死んだ状態になるまでは瞬間的で、いったん死んだ状態になればもはや生きていたときの状態には戻れない」ということである。

ただし、「知る」は他動詞で「死ぬ」は自動詞という違いがある。

一見同じような性格を持っているかに見える「知る」と「死ぬ」を比べてみる。

 

「知る」の「ている形」は「知っている」で、その「知っている」の否定形は多くの場合、「知らない」が自然である。

 

すなわち、「その件は知っている」の否定文は「その件は知らない」が自然な現代日本語である。「その件は知っていない」とも言えそうだが、ぎこちないことは否めないだろう。

かりに「その件は知っていない」でも良いとしても、「知っていない」の代わりに「知らない」が堂々と使えて、しかも正位置だと言ってもいい働きをしていることは事実である。

 

では「死ぬ」はどうだろうか。「死ぬ」の「ている形」は「死んでいる」であり、その「死んでいる」の否定形は「死んでいない」である。「死ぬ」に対応する否定形は「死なない」であり、「死んでいる」に対応する否定形は「死んでいない」である。

 

つまり、「死ぬ-死なない」「死んでいる-死んでいない」の対(つい)が成り立ち、「死んでいない」の代わりを「死なない」が務めることはできない。「彼は死んでいない」と「彼は死なない」に意味の違いは歴然としている。「彼は死なない」の「死なない」は不死身、つまり「恒久的」に生きられることを示唆するのである。

 

瞬間動詞の中でもイメージが明確な「死ぬ」と比べてみたが、もう一つ、「知る」に極めて似ている動詞「分かる」と比べてみよう。

 

「分かる」も「分からない状態から分かった状態になる変化は瞬間的に完了し、その結果の状態は基本的には分からない状態には戻らない」性格である。ただし、「知る」が「他動詞の瞬間動詞」であるのに対して「分かる」も「死ぬ」と同様に「自動詞の瞬間動詞」である。

 

さて、具体的に「知る」と「分かる」を比較してみる。

「知る」は「これを知っていますか」と訊けるが「これを知りますか」とは訊けない。それに対して、「分かる」は「これが分かっていますか」も「これが分かりますか」も両方可能である。

そして「知る」の否定の表現が「知りません」(?知っていません)であるのに対して「分かる」の否定の表現は「分かりません」と「分かっていません」(今現在の状態)となり、「ない形」と「ていない形」が極めて自然に使い分けられるのである。

 

「~ています」を使った「分かっていますか?」(理解できるという 状態がすでに確認されていますか?)「分かっていません」(理解できないということがすでに確認されています)は「分かりますか?」(いま現在、理解できますか?)「分かりません」(いま現在、理解 できません)と意味的に明確な区別があると見られる。

 

これに対して「知る」は、知覚作用の動詞であり、「知っている」で「情報を得た結果の状態」を示す。

 

「~ています」を使った「知っていますか?」(情報を得た状態がすでに確認されていますか?)の返答として「知りません」が使える。つまり「知りません」は「知っていません」と同様に「情報を得ていない状態がすでに確認されています」という「知っていない状態」を表すことができるのである。

 

つまり「知っていない」という表現が使われるにしても、「知らない」は「知っていない」を包含する「状態」を表すことができるので「知っていない」のほとんどの席に取って代われるだと思われる。

 

言語学者、久野暲が『新日本文法研究』(大修館書店1983年)で「知らない」と「知っていない」の異同について言及している(p.109p.116)ので、その主張を検証してみよう。

 

久野の視点を《 》で順に引用して、その後に私の検証を述べる。

まず「構文法的要因」については

《A. 「知ッテイル」と平地され、肯定・否定の対比を表わす時には、「知ッテイナイ」が用いられる。》

とある。

 

例えば

「そのことを知っていても、(〇知っていなくても / ?知らなくても)結果には関係ないだろう。」という文例が考えられる。だが、これは「知る」以外の動詞についても同様のことが言えるので、「知っていない」と「知らない」の差異が生じる要因としては、ここでは除外する。

 

「知る」以外の動詞「分かる」での検証文例:「それが分かっていても(〇分かっていなくても / ?分からなくても)、とにかく返事だけはしてれ。」

 

《B. 活用変化語尾「・・・ケレバ」が附加された場合、「知ッテイナイ」パターンが義務的に用いられる。「知ラナケレバ」は、「知るようにならなければ」の意味しかない。》

 

久野は次のような文例の場合は「知らなければ」は「不適」だという。

 「この試験に合格するためには、日本語をよく【知らなければ】ならない」

 

 久野はこれらの文例について、但し《「知らなければ」が現在の状態を表わす場合》としている。

 

つまり、

「(今)この試験に合格するためには、(今)日本語をよく【〇知っていなければ / ×知らなければ】ならない」

という見解である。

 

しかし、これは「今の時点までに、日本語についての知識を充分に持っていなければならない」という「充分な日本語の知識をある時点までに得ているかどうか」の「完了」の有無の問題であり、久野の主張する《「・・・ケレバ」が附加された場合、「知ッテイナイ」パターンが義務的に用いられる》とは言い切れない。したがって、これも「知っていない」と「知らない」の差異が生じる要因としては、ここでは除外する。

 

《C. 活用変化語尾「・・・クテハ」、「・・・クテモ」が附加される場合には、「知ラナイ」と「知ッテイナイ」両パターンが用いられ得る。推量形「・・・カロウ」も同様である。》

 

これは「知っていない」と「知らない」の両方が使える、ということで、両者の差異の要因としてはここでは除外する。

 

 《D. 「知ッテイル」の否定形が、肯定の推量を表わす場合には、「知ッテイナイ」パターンも用いられ得る。》

これも上記Cと同様の理由で、両者の差異の要因としてはここでは除外する。

 

次に久野が挙げている「意味的要因」を見てみる。

《A. 「知ッテイナイ」は、動作・完了性に着目した表現であり、「知ラナイ」は、静的状態に着目した表現である。》

 

久野は「ドイツ語を(×知っていない / 〇知らない)」や「山田さんが(×知っていない / 〇知らない)人」のような文例を示している。ここでは「完了性」は前提にされていない。

 

久野はここから、逆に「完了性」が強く出る文脈では「知っていない」が使われ得るとして、次の文例を示している。

 例)「このクラスの学生たちは、英語進行形の用法はまだ【知っていない】と思います」

しかし、この文例の「知っていない」を「知らない」に入れ替えても、

「このクラスの学生たちは、英語進行形の用法はまだ【知らない】と思います」

と自然な表現になり、

 

久野の主張である《「知ッテイナイ」は、動作・完了性に着目した表現であり、「知ラナイ」は、静的状態に着目した表現である。》のうち、

後半の《「知ラナイ」は、静的状態に着目した表現である》の部分は明確には認められない。また、前半の《「知ッテイナイ」は、動作・完了性に着目した表現》という点は、他の動詞、例えば「分かる」においても

「今日までにこの問題は【分かっていなければ】ならない」と言える。

したがって、「知っていない」だけが「完了性」を特別に表現できるとは認められない。

 

以上の検証から、久野の主張する《「知ッテイナイ」は、動作・完了性に着目した表現であり、「知ラナイ」は、静的状態に着目した表現である。》も、「知っていない」と「知らない」の差異が生じる要因としては、ここでは除外する。

 

むしろ「知らない」が「知っていない」の持つ「状態性」を包含する動詞形態であることに注目したい。

 

《B. 従って、「・・・ヲ知ッタ」という表現が困難であればある程、「知ッテイナイ」を用いることが困難である。》

 

例えば「私はドイツ語を【?知った】」が通常の表現としては違和感がある、ということを指していると考えられる。通常は「私はドイツ語を【知っている】」という表現を用いるからだ。なるほど、この否定文は「私はドイツ語を(?知っていない / ○知らない)」である。

 

だが、「私は【その時期】、ドイツ語を【知った】」とすると、これは違和感がなくなる。

したがって、「知っていない」を用いることが困難なのは「知った」という表現が困難なことが原因ではなく、「それを知るのに、ある程度の時間がかかる」場合である。

 

以上の検証から、久野が主張する《「・・・ヲ知ッタ」という表現が困難であればある程、「知ッテイナイ」を用いることが困難である。》は、「知っていない」と「知らない」の差異が生じる要因としては、的を射ていないと思われ、ここでは除外する。

 

さて、この久野の主張の検証から発展させて、私が上記のように触れた視点、すなわち

「私はドイツ語を(?知っていない / 〇知らない)」について考えてみる。

 

この場合の「ドイツ語を知る」とは「ドイツ語を全体として習熟している」ということで、「ドイツ語のある単語を【〇知った】」の「知る」が意味する「瞬間的にある単一の情報・知識を得る」ことではない。すなわち私が得た視点は、「知る」には二通りの内容があるということを示唆している。

 

「知る」が獲得する情報には質的な面で大きく二つに分けられる。

一つは「ドイツ語のある単語」を対象にする場合のように、「その【情報を得る行為の開始から終了までが瞬間的に完了】して、その結果、情報は知識として変わらない状態となる」、言わば普通の瞬間動詞として機能する情報の対象である。

 

もう一つは「ドイツ語そのもの」を対象にする場合のように、「その情報全体を得る行為の開始から終了までにある程度の時間が必要で、それを熟知・習得・精通した状態」を意味する「知る」である。

 

この「知る」の意味の二面性については、改めて後述する。

 《C. 「知ッテイナイ」は、それが表わす状態が非恒常的であることを示唆する。》

 

例えば、「彼が今そのことを(〇知っていない / 〇知らない)のは問題だ。」

という文例を考えると、「知っていない」も「知らない」も「非恒常的」な状態について言える。

 

では次の文例ではどうだろうか。

「その内容をずっと(?知っていない / 〇知らない)で死ぬことはできない。」

つまり、「知らない」は恒常的・非恒常的な状態の両方に使えるが、「知っていない」は恒常的な状態の場合には使えないことが分かる。

 

ところが、他の瞬間動詞、例えば「分かる」の否定形「分からない」で考えてみると、

「彼が今そのことが(〇分かっていない / 〇分からない)のは問題だ。」(非恒常性)

「その内容がずっと(?分かっていない / 〇分からない)で死ぬことはできない。」(恒常性)

となる。すなわち、「ない形」が恒常的・非恒常的な状態の両方に使えて「ていない形」が恒常的な状態の場合には使えないことは、「知る」という動詞に限らないのである。

 

《D. 「知ラナイ」は、知識の欠如を、その主体(主語)の内側から見て記述した表現であり、「知ッテイナイ」は知識の欠如を、外側から客観的に観察して記述した表現である。》

 

試みに文例を考えてみると、

「ダメだな。君はそのことを全く(〇知っていない / 〇知らない)んだね」(客観的)

「私は全く(×知っていない / 〇知らない)んです。」(主観的)

となり、「知っていない」は客観的な観察からの表現に向いていることは分かるが、ここではむしろ「知らない」が主観・客観の両面からの視点で言える、という事実のほうが重要である。

 

さて、久野の「知っていない」「知らない」の差異についての見解の検証をする中で、私は日本語の「知る」とスペイン語の「知る」との関係が頭から離れなかった。それは次のようなものである。

 

スペイン語では日本語の「知る」に当たる動詞は「saber」(単一の情報を得る)と「conocer」(複合体としての情報全体に習熟・精通する)に分けて使われる。

 

日本語では「彼はドイツ語を(?知っていない)。」という表現よりも、「彼はドイツ語を【知らない】」のほうが適切な表現だと言える。

 

上記の文例は、前提として、ドイツ語が外国語である場合を想定して述べたものである。「ある外国語を知る」ということは、スペイン語で言う「conocer」(複合体としての情報全体に習熟・精通する)の意味のほうを指す。

 

例えば、「山田さんは知人」の意味で「私は山田さんを(〇知っている / ×知る」と言う場合、名前のみを知っているときはsaber、知り合いなどで人柄まで分かっている場合にはconocerを使うのである。

 

その否定文の文例は「私は山田さんを(?知っていない / 〇知らない)」

となる。

 

日本語の「知る」はスペイン語の「saber」「conocer」の両方の意味をカバーする動詞と思われる。日本語話者は無意識のうちに両者の領域の境界を探りながら使っているのではないだろうか。

 

また、「知る」の語の本質は「領(し)る」(占有する。すっか り自分のものにする)で、そこから「その情報を持つ」「精通する」 などの意味が出て来たようだ。

 

ある領土を「領(し)る」のは全体を支配できたと認識した場合、つまり、「習熟」「熟知」「精通」している場合で、基本は「ある人がどんな人であるかを知る」「外国語を知る」などのような意味に軸足を置いた動詞だと思われる。

 

 以上の点から、「知っていない」「知らない」の問題は、次のように考えられる。

「知っている」の打消し表現として、「知っていない」という表現も存在するが、一般的に「知らない」のほうが圧倒的に使われているという実情を見ると、日本語の「知る」は、「単一の情報からの知識」の領域よりも、幾分「複合体としての情報全体への習熟・精通」の領域のほうに軸足を置いた表現であることが分かる。

 

つまり、日本語の「知る」は「占領する。占める」という意味から来ていて、スペイン語のsaberconocerではconocerのほうに近い意味だと考えて良い。

 

すなわち、もともとconocer(複合体としての情報全体に習熟・精通する) に近い機能にその軸足を置いているが、saber(単一の情報を得る)の機能までの広い範囲をカバーしているのが日本語の「知る」である。

 

こうした要因もあって、「知っている-知っていない」の対応を壊し「知っている-知らない」の対応を構築し、自ずと状態表現も表せる「知らない」のほうが「知っていない」よりも語感的に安定した印象を持たれるようになった、と考えられる。

 

まったく「知る」という動詞は、一筋縄ではいかない、手ごわい動詞である。同時に日本語の秘密がぎっしり詰まった、まことに魅惑的な語である。もし「知る」という秘密の箱の中を覗けるようになれば、日本語は新たな姿を見せることになるだろう。

 

最後に、本考察で得た、日本語の動詞「知る」の性格を以下に掲げておく。

1・「知る」は、知覚作用の動詞であり、「知っている」で「情報を得た結果の状態」を示す。

2・「知らない」は「知っていない」の持つ「状態性」を包含する動詞形態である。

3・「知らない」は恒常的・非恒常的な状態の両方に使えるが、「知っていない」は恒常的な状態の場合には使えない

4・「知っていない」は客観的な観察からの表現に向いているが、「知らない」は主観・客観の両面からの視点で言える。

5・「知る」には「単一の情報を得る」意味範囲と「複合体としての情報全体に習熟・精通する」の意味範囲がある。

6・「知る」の語の本質は「領(し)る」(占有する。すっかり自分のものにする)である。


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tag : 日本語 日本語教育 国語 知る 知っていない

 
日本語のエッセンス(25)【へ】は滅びゆく運命か?「東京(へ/に/を)行く」を考える



(*写真: みやげもの売り場は、世界の人気者の中で日本のドラえもんも頑張っていた)


日本語のエッセンス(25)【】は滅びゆく運命か?「東京(//)行く」考える

 

「東京【】行く」

より

「東京【】行く」

と言う人の方が多い。

 

】は方向示す「矢印」そのものと考えれば良い。イメージで言うと、矢印の出発点の端から三角形の尖った先、着点までの全部である。

 

「今から東京【】行く」

と言えば、彼はまだ矢印の出発点居る。

「東京【】行ったら、会おうね」

と言えば、彼はまだ東京着いていないが、東京指す矢印の末端、着点イメージしながら言っている。

 

矢印のどの部分イメージして言っても良いのが格助詞【へ】の強みである。いや、強みであった、と言ったほうがいいのかもしれない。【へ】の強みが現代の日本語活かされているとは言いにくいからだ。【へ】は滅びゆく運命なのか?

 

と言うのは、最初に言ったように、今は

「東京【へ】行く」より「東京【に】行く」

と言う人のほうが圧倒的に多くなっているからである。

 

【に】が着点をピンポイントで指すのに対して、【へ】はつい「矢印」全体を表してしまう人の良さ(助詞の良さ?)がある。そこで、【へ】を体現する「矢印」の末端にある「三角形の尖った先」の一点は【に】の指すピンポイントと重なるように見える。

 

「東京【へ】行く」でも「東京【に】行く」でも違和感を感じないのは、【へ】と【に】の領域が重なっているように見えるからである。しかし、厳密に言えば【へ】は出発点から着点「辺り」(【へ】の語源は「辺」)までの経過を含めた「矢印」全体、すなわち「方向」を暗示するのに対して、【に】は、ひたすら「着点」のみをマークすることに生きがいを求める求道者的なところがある。

 

「東京【へ】行く」と言えば、意識的無意識的に関わらず、「東京方面を指す矢印全体」の「方向」性を常に暗示している。一方、「東京【に】行く」と言えば、話者の頭の中ではすでに「着点」に着いている自分がイメージされている。せっかちな現代人に受け入れられる所以である。

 

さて、たとえ見かけ上であっても交換可能な一点もある格助詞【へ】【に】に対して、もう一つの領域を指す格助詞【を】はまったくスケールの大きな性格を持つ。今取り上げようとしている【を】は自動詞をとり、他動詞の対象を指す目的格の【を】とは区別する。

 

「東京【へ】行く」「東京【に】行く」と「東京【を】行く」

では明らかに意味が違ってくる。【に】はピンポイントの「着点」だけを示すから、もちろんのことだが、移動・経過のイメージを持つ【へ】とも大きな違いがある。

 

「東京【を】行く」

と言えば、東京という地域の全部を「移動の経路」として視野に入れて「行く」のである。東京という範囲の中で自由な方向に自由な軌跡を描いて「行く」イメージをこの【を】は、さり気無く示す。融通無碍な移動を「面」、時には「空間」のレベルで受け入れる【を】の前では、矢印が指す「終着点への方向」のみを「線」で指定する【へ】は一本気な堅物にさえ見えてくる。

 

「東京【を】歩く」は通過「面」、

「空【を】飛ぶ」は通過「空間」、

「角【を】曲がる」は通過「点」。

助詞【を】は、前の相手(東京、空、角)が大きくても小さくても立合いに変化をつけてきても、まったく動じない、横綱相撲をとる。

 

これらは取り口は違っても、皆「移動の経路」を示す【を】である。

 

ちなみに、この「移動の経路」が極端に短い場合は、その場所からの「離脱」になる。その経路を通して移動するイメージは同じである。

 

それが「離脱の【を】」と呼ばれるものである。

「部屋【を】出る」

「バス【を】降りる」

「学校【を】卒業する」

の【を】である。

 

最後に、もう一度、「へ、に、を」の問題でもっとも興味深い問い、【へ】は滅びゆく運命なのか? と問うてみる。

 

どっこい、【へ】には【に】も、そして【を】さえもできない芸当を持っている。

それは格助詞「の」の前に付いて名詞にかかるワザである。

 

「東京【に】到着する」→×「東京【にの】到着」

「東京【を】散策する」→×「東京【をの】散策」

 

このように、今をときめく個性派【に】も、「が」と並んで格助詞の横綱の貫禄さえ漂う【を】も、格助詞「の」の前に付くことは不可能なのだ。だが、

 

「東京【へ】出発する」→〇「東京【への】出発」

のように、今日では存在感が薄くなったように見える【へ】は、堂々と【への】の形をつくり、名詞にかかることができるのである。その上、

 

「東京【に】到着する」→〇「東京【への】到着」

のように、【に】の領分まで引き受けているのだから、先の問い「【へ】は滅びゆく運命なのか?」への返答は、

 

――とんでもない、【へ】は滅びゆくどころか、たぶん永遠に不滅です――



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