2017/03
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日本語についてのよくある質問(続)

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日々の日本語教育の実践の中で、ふと疑問にぶつかることがありますね。そんな日本語教師の方々からの疑問に答えたものです。

条件節の「は」について教えてください。

 

「後に否定語を伴い、その意味を強調する」のは係助詞「は」の機能の一つですが、なぜこの機能を持つのか、という問いに答えるには「は」の本質に触れなければならないでしょう。係助詞「は」は「その前の言葉を肯定・提示し、後にかかる部分での明確な解決・説明を求める」性質を持っています。したがって、肯定文よりもいっそう「明確な解決・説明」を求められる否定文では特に「は」が現れやすい、と言えます。→≪これは私の本で「は」ありません≫

次に、条件節の中では「は」は使われにくいのはなぜか、について。「は」にはもともと「条件の提示」という性質があり、接続助詞「ば」に通ずる機能が見られます。(≪見ず「は」のぼらじ≫≪恋ひしく「は」とぶらひ来ませ≫)このことから条件節の中で更に「は」を使うことは自ずと避けられて来たのだと思います。→≪明日雨でなければ≫ 言葉は理屈で説明できない部分も多いですが、特に大人の日本語学習者には論理性への欲求を満足させてあげることも必要かと思います。

 

 

「は」と「が」の違いって・・・

 

「は」と「が」の役割の違いを説明するのによく持ち出されるのが<「は」は旧情報、「が」は新情報を表す>という大野晋氏の唱えた説ですが、この説自体がなお説明を要する性質を含んでいて、私はあまり勧めません。しかも日本語学習者に説明する場合は出来るだけ具体的かつ本質的なイメージを与える必要があります。

まず日本語教師側として確認しておくべきことは、「は」は決して主格を示す格助詞ではなく、係助詞であるということです。(もちろん教授技術の一つとして、学習者のレベルに応じて「は」も「が」とともに<主語の後に付き主語を示す助詞>と説明しても構わないと思います)つまり「は」は<述部を強く意識させる役割>を持っている助詞です。
<(1)私「は」田中です。>と<(2)私「が」田中です。>を比較してみます。(1)で「私は」と言った段階で、聞き手は次に続く述部に来る内容に期待し注意を喚起されます。

つまりここでは、「は」は「田中です」という述部を引き立たせる役目を持っています。次に(2)で「私が」と言った段階で聞き手はすでに主部に興味を引かれています。つまり「が」は紛れも無い主格の格助詞で、「が」の前の内容、ここでは「私」を強く意識させます。
とくに「は」は多面性を持っているので、ここでそのすべてを説明することはできませんが、「は」の持っている役割のうち前述の<①述部を強く意識させる役割>のほか次の二つの重要な役割について触れておきます。

それは、<②叙述の主題(テーマ)を提示する役割>と<③他と区別して取り出して言う役割>です。②は「は」を「~について言えば」と置き換えてみると分かり易いと思います。③は「~は~だが、~は~だ」の対比の例文を示すといいでしょう。以上、おもに「は」に重きを置いて述べましたが、切り口によっていろいろな説明が可能ですから、あとは他の人の投稿を待ちたいです。

 

 

③質問を二つ。1、卵が生まれる?  
          
 2、「に頼る」か「を頼る」か。

 

 まず「卵が生まれる」について。はじめはどういう質問かちょっと考えたのですが、たぶん<「生まれる」のが「卵」というのはおかしいか?>という意味で質問しているのだと解釈します。「生まれる」は、母体から「子が生まれる」「卵が生まれる」と、両方に使えます。「卵から孵(かえ)る」意味でも使えます。

次に「に頼る」「を頼る」について。
(1)親戚「に」頼る。 (2)親戚「を」頼る。 「頼る」(「手依る」「手寄る」で「すがる」が原意)の意味から(1)は「全身を寄りかけてすがりついている様子」が想像できます。(2)は「縁故を求めて近づく様子」が想像できます。
「頼る」は自動詞と考えていいから、まず「に頼る」が自然で、「を頼る」は別のニュアンスを表現するために登場したと考えられます。「頼る」に似た語で「頼む」(「手祈む」で「祈り願う」が原意か)がありますが、これは他動詞で「親戚に用事を頼む」のように間接目的語に「に」、直接目的語に「を」をつけることが自然にできます。こういう類似語との混同から「を頼る」の表現が登場したのかもしれません。「頼む」との関係は、あくまでも仮説です。

 

 

④ふたりぐみ、ににんぐみ?

 

「ふたり」に他の単語がついてまとまった表現を示すものは意外と少なく、例えば「二人静(ふたりしずか)」「二人大名(ふたりだいみょう)「二人袴(ふたりばかま)」のように能や狂言の題目に幾つか見られます。一方「ににん」は「二人三脚」「二人称」「二人乗り」と現在でも使われる表現が挙げられます。」

「二人組」を「ににんぐみ」と読む理由の一つは、特に上代では「ふたり」が「男女の一組」を指す例が多かったのが影響しているのではないか、と考えられます。これは「二人乗り」にも言えますが、俗には「ふたり」と読んでも構わないのではないでしょうか。
NHKの関係者にお答え頂ければ一番いいのですが。

 

 

「どの位」と「どれ位」

 

「くらい」には名詞と副助詞(「ぐらい」とも)があり、「どのくらい」は≪「どの」(連体詞)+「くらい」(名詞)≫で、「どれくらい」は≪「どれ」(代名詞)+「くらい」(副助詞)≫と分析できます。したがって≪「どのくらい」の量が必要ですか≫は≪「どれくらい」必要ですか≫と言えるし、≪「どのくらい」の距離を歩きますか≫は≪「どれくらい」歩きますか≫と言えることになります。

参考までに意味のよく似た「ほど」「ばかり」を見てみますと、「(×)どのほど」「(〇)どれほど」(副詞)「(×)どのばかり」「(×)どればかり」→「いかばかり」(副詞)と一語になっていて、「くらい」が「ほど」「ばかり」に比べると独立性を保っているようです。理論的には上記のようになりますが、日常的な会話では「どのくらい」は混用され、「どれくらい」と同様に副詞的に使わることも多いようです。

 

 

⑥リンゴがいくつありますか

 

 ≪りんご「が」いくつありますか≫は確かに不自然な文です。≪りんご「は」いくつありますか≫が自然でしょう。「は+疑問詞」「疑問詞+が」が基本で、「が」を使う疑問文を示すなら≪いくつりんご「が」ありますか≫とすべきです。これは、例えば≪テーブルのうえにりんご「が」あります≫という文型で「が+あります」を定着させた流れの中で安易に「が+いくつ+ありますか」を示したのだと思います。

「が+好きです」の文型についても疑問文になると、≪音楽「が」好きですか≫は不自然で、私は「が」を「は」に直して教えています。日本語教科書は数多く出ていますが、残念ながら必ずと言っていいほど欠陥が見つかります。
他の英西独仏語などの外国人に対する言語教育に比べると「外国語としての日本語教育」の歴史がほとんど無いに等しいこともありますが、現在の日本語教育は言わば「外圧」によって必要に迫られて渋々始められた、というのが実態でしょう。

日本語教育について考えるとき、放っておけば母国語が消滅したり隣国の言語にとって代わられる危険が常にある国々と、そんな危険性などついぞ考えたことのない日本との、母国語への国や国民の意識の差を私はいつも感じます。日本語教科書づくりに積極的に厳しい注文をしていくことも日本語教師の大事な仕事の一つで、ひいてはそれが日本語教育全体のレベルアップに繋がると思います。

 

 

⑦「・・というわけだ」について

 

(実は)を入れて、(A)<子供は押し入れに隠れた。(実は)帰ってきた父親を驚かそうというわけだ>と(B)<私はフランス語を勉強する。(実は)フランス人の友達を作りたいというわけだ>を比較してみると、少し違いが見えてきます。「(実は)~というわけだ」は「(本当のことを言うと)~という理由・事情があるのだ」と理解していいと思います。

(A)は「前文の秘密めいた行動の理由が後文で見事に解き明かされる」という関係になっていて、この表現「~というわけだ」にぴったり当てはまりますが、
例(
B)は何かしっくりこない感じがします。もし(B)を<「彼」はフランス語を勉強「している」。(実は)フランス人の友達を「作ろう」というわけだ>と修正すると、「彼」をよく知っている人が、「彼」がフランス語を勉強する、あまり知られていない理由を説明している文になります。

(B)がしっくりこない原因は、第一人称「私」にあるように思われます。つまり「~というわけだ」という表現は「他者の行動のあまり知られていない理由・事情を解説する場合」に使うことが多いではないかと考えられます。面白い問題を提起して頂き、私にもいい勉強になりました。

 

 

⑧「。。。たものですから」を説明したいのですが

 

「~(た)ものですから」の「ものです」は「ものだ」(感動、驚き、当然、強調などを表す慣用表現:形式名詞「もの」+断定の助動詞「だ」)の丁寧な言い方で、これを省略して「~(た)から」と捉えると、あとは原因・理由のニュアンスについて分析すればいいことになります。 接続助詞「から」の代わりに意味のよく似た「ので」を入れると≪~ものです「ので」≫となり、この場合何かしっくりいきません。

「ので」は前文と後文の因果関係が客観的に明確な場合に使われ、「から」はそうでない場合に使われるのが普通です。従って、ある結果の原因・理由を主観を交えた形で述べる場合は「から」を使いたくなるわけです。この例文の場合も「から」を使っていますが、「ものです」で自分の予期しなかった事柄が起きたという感情の提示(「ものだ」)と丁寧さ(「だ」→「です」)を加えることによって、「から」の持つ自己主張の強さを和らげています。


「外国語としての日本語」教育はまだ整備されていないことが多く、日本語文法もその例に漏れません。すでに出回っている権威のありそうな本や辞書に書かれていることも、私たち現場で実践している日本語教師がひとつひとつ検証していく必要があります。お互い勉強して知恵を出し合っていきましょう。

 

 

⑨「すべき」?「するべき」?

 

「べき」は文語の助動詞「べし」の連体形で、現在では文語的な言い回しにのみ用いられ、一般に動詞の終止形に(ラ変動詞などには連体形に)接続します。サ変動詞「す」(文語)「する」(口語)のどちらに接続させるかによって「すべき」「するべき」と分かれますが、「べき」の文語的性格上、やはり「すべき」とすべきなのではないでしょうか。

でも動詞「す」は室町時代にはもう終止形に「する」が併用されていたので、この動詞の正統的文語時代は意外と短命でした。したがって日常会話のレベルでは「するべき」も間違いとは言えない事情があります。

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tag : 「は」と「が」 卵が産まれる 「すべき、するべき」 「を/に頼る」

 
日本語についてのよくある質問
 
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 日本語学習者や日本語教師の方々から日本語についての質問を受けることがありますが、けっこう同じような趣旨の質問が多い気がします。それらについて答えたものは、他の日本語教師の皆さんにも何らかのヒントになるかもしれない、と思い、載せておきました。

ここでは次の九つの質問について考えます。

(1)「彼(と/に)相談する」(2)なぜ「同じの本」とならないか?(3)「かわいいだろう」の意味で「かわい+そう」は使えないのか?(4)緑信号はなぜ「青」と言うのか?(5)「課長はお酒≪に/が≫強い」(6)「の」と「こと」の違いは?(7)東京(へ/に)行く(8)「日曜日まで休みがない」では日曜は休みか否か?(9)「五千円【以上】はびた一文払えない」と言えば、五千円は払えるのか?


【質問】(1)「彼(と)相談する」か「彼(に)相談する」か?

【答えを探る叩き台】
この「と」と「に」の違いについては、私も以前苦慮した経験があります。私が日本語学習者に示した例は次の通りです。

(A) これについては友達「と」相談します。
(B)これについては先生「に」相談します。

(A) の場合「友達」は相談する相手としては「動作の主体者と対等の立場の協同者」で、 (B) の場合「先生」は相談する相手としては「動作の主体者がそのもとへ赴き、働きかけなければならない立場や資格の人」ということになると思います。

「に」にはもともと「場所」を示す働きがあり、日本人は目上の人を直接的に指すのを憚り、間接的に「その場所に居る人」と表現することで「敬意」を示す習慣があることを思い出せば、この場合の説明も深みのあるものになると思います。その流れを汲んでいるのが<先生「に」はお変わりなくお過ごしのことと存じます。>などの表現だと考えます。


【質問】(2)なぜ「同じの本」とならないか?

【答えを探る叩き台】
「同じ」は基本的にはナ形容詞で、名詞に続く形(連体形)が「な」の付かない変則的な活用をして「同じ」となる、で大抵は納得してくれるはずですが、そうは簡単にいかないのが日々の授業ですね。

でも、我々日本語教師はこの学習者のおかげで「同じ」の品詞について考えさせられます。「外国語としての日本語」の文法としては便宜的に上の説明でまとめてしまっていますが、「日本語文法」あるいは「国文法」としてはなかなか奥の深い単語だと思います。「同じ」は文語ではシク活用の形容詞で、口語では終止形「同じい」が現在ではほとんど使われず、連用形「同じく」だけが辛うじて残っています。つまり「同じ」はイ形容詞だったのか、ということになります。その「同じ」が体言化したものが名詞あるいはナ形容詞(いわゆる形容動詞)語幹あるいは連体詞として扱われる、と考えればいいと思います。

国文法では形容動詞を認めない立場があり、この立場からはナ形容詞語幹は名詞となるわけです。現在「日本語文法」は、私たち日本語教師が実践を積み重ねて行きながら確立していかなければならない状況だと思います。


【質問】(3)「かわいいだろう」の意味で「かわい+そう」は使えないのか?

【答えを探る叩き台】
まず「そう」について。接尾語あるいは「そうだ」全体で助動詞とする説が一般です。質問の例はいわゆる「推量・様態」の「そう」だと思います。従って、イ形容詞では語幹に付きます。「かわいい」にこの「そう」を付けると「かわいそう」になります。

ここで「かわいい」(「可愛い」は当て字)の意味を見てみますと、「かほはゆし→かははゆし」(顔映し)→「かわゆし」の転で、「恥ずかしくて顔がほてる-見るに忍びない-気の毒で見ていられない-可憐だ-愛らしい」と転じ、現代では「愛らしい」の意だけが残っています。

「気の毒」の意は「かわいそう」(「可哀相」は当て字。ナ形容詞)が引き受けているので、「愛らしい」の意で使う「かわいい」に推量・様態の「そうだ」を付けた形は事実上使えないことになります。

それでは、「かわい+そう(推量・様態)」の意を表わしたい時は一般にどのように表現しているのでしょうか?
「不確かな断定」も含めると「かわいい(だろう)と思う」「かわいいみたいだ」「かわいいようだ」「かわいいらしい」(これも「かわいらしい」<:「かわいい」とほぼ同意。イ形容詞>と紛らわしい)などを場面によって代わりに使っているようです。
もちろん、伝聞の「そうだ」を付けた「かわいいそうだ」は問題ありません。


【質問】(4)緑信号はなぜ「青」と言うのか?

【答えを探る叩き台】
日本語の「あお(青)」を日本語学習者に教える際、日本語教師は幾つかのことに注意するはずです。学習者のレベルによっては、≪「あおいりんご」「あお信号」の「あお」は「緑」を意味する≫こと、また未熟の意の「あおい」や「顔色があおい」、更に上級レベルの「あおい月」「あ
おげの馬」ともなると、この語「あお」の本質に触れさせる機会になります。

日本語の「あお」は、「灰色がかった白」を指した時期もあり、染色・襲(かさね)の色目(しきもく)としては青・緑以外に麹塵【きくぢん:淡黄緑色(たんおうりょくしょく)】山鳩色(やまばといろ)【黄色がかったもえぎ色】をも含めた総称だったと言います。更にさかのぼると、「あか(明)」「くろ(暗)」「しろ(顕)」のどれにも当てはめられない曖昧な色が「あお(漠)」に区分されたらしい。


【質問】(5)
「課長はお酒≪が≫強い」という文例が日本語教科書に載っていたのですが、「課長はお酒≪に≫強い」との違いはどう説明したらいいのでしょうか?

【答えを探る叩き台】
この場合の「が」と「に」の比較は見かけほど簡単にはいかないようです。「課長はお酒≪が≫強い」の文は、たぶん教科書編集者は有名な「象は鼻≪が≫長い」の文型の一つとして挙げたのでしょう。しかし、この文での「酒≪が≫強い」は「酒の度数が強い」の意味ではなく「課長は酒に対して強い」の意味になりますから、≪が≫の性格を見る必要があります。

まず、「課長はお酒≪に≫強い」の文の≪に≫は「に関して」の意の格助詞で、特定の形容詞の前に付いて慣用表現を表します。例えば、「彼は数学≪に≫弱い」「彼は子供≪に甘い≫」「彼はお金≪に≫汚い」」などを見ると、それぞれ「が不得手だ」「に厳しくない」「にさもしい。けちだ」となり、本来の意味と異なる意を示しています。

また、「酒≪に≫強い」は「酒に関しては得意だ」の意味になるので、場合によっては「酒については何でも知っている」の意味にも受け取れ、「酒≪が≫強い」よりも意味の範囲が広いと言えます。

一方、「酒≪が≫強い」(又は「酒が弱い」)の「酒」は次の文例に見られるように、他の語に置き換えにくいという点で特殊です。

「彼はビール≪(?)が/(◯)に≫強い」
「彼は甘いもの≪(×)が/(◯)に≫強い」
「彼は女性≪(×)が/(◯)に≫強い」

さて、「課長はお酒≪が≫強い」と「課長はお酒≪に≫強い」との違いを探るため、次の文例を見てみます。

(1)「彼は英語≪が/に≫強い」
(2)「彼は寝技≪が/に≫強い」

(1)、「彼は英語≪が≫強い」と言えば、<彼の内部に持っている英語力を評価>している表現と見ていいでしょう。一方、「彼は英語≪に≫強い」と言えば、<英語という外部の状況を迎え撃つ能力を評価>しているのであって、必ずしも英語力だけについて言っているわけではないのです。
(2)、柔道の選手について「彼は寝技≪が≫強い」と言えば、<彼の内部に持っている得意技の寝技を評価」し、「彼は寝技≪に≫強い」と言えば、<相手選手が掛けてくる寝技という外部の状況を迎え撃つ能力を評価>していることになるでしょう。

したがって、「課長はお酒≪が≫強い」といえば、<課長の≪内部≫に持っている、酒に簡単に酔わないという能力を評価>し、「課長はお酒≪に≫強い」と言えば、<酒という≪外部≫の状況を迎え撃つ能力を評価>していると言えますが、上記の「英語」や「寝技」の文例のようには≪が≫と≪に≫の違いが出にくい設定になっています。


【質問】(6)
1.外国人に対し日本語で話すことが難しいです。
2.外国人に対し日本語で話すのが難しいです。 
における「の」と「こと」の違いは?

【答えを探る叩き台】
例の文は1→1a.外国人に対し[ては]日本語で話すことが難しいです。
    2→2b.外国人に対し[ては]日本語で話すのが難しいです。

または1→1c.外国人に対し[て]日本語で話すこと[は]難しいです。
    2→2d.外国人に対し[て]日本語で話すの[は]難しいです。
のどちらかの表現にしたほうがいいと思います。

さて、「の」「こと」の使い分けですが、ニュアンスの違いがありますが、文としては「の」も「こと」も使えると思います。
前に私の他の掲示板に書いた記事を下に再録しておきますので、参考にして下さい。
    *
用言を受ける形式名詞「の」は「もの」「ひと」「こと」の意を表す、というのが国文法における一般的な説明でしたが、現代日本語を外国語として観ると、「の」を形式名詞「こと」との比較において分析し、両者の特性を明確にする必要が生じて来ました。ちょうどこの両者の違いについての質問がありましたので、具体的に示された例文で検討し、考えてみたいと思います。皆さんと一緒に知恵を出し合い、現代日本語の文法を再検討して行きたいと考えています。「日本語の文法を観る」への投稿をお待ちしています。
*
①≪英語を話す「こと」はおもしろい≫の形式名詞「こと」は、活用語の連体形を受けて名詞句を作り、その内容を「抽象的・一般的に考えられた概念(経験・習慣・必要・状態等)として示す」働きを持ち、

②≪英語を話す「の」はおもしろい≫の形式名詞「の」は、先行の活用語を名詞化し「その行為・状態を具体的・個別的な状況・実態として示す」働きを持っていると思われます。したがって、

① は≪「一般的に」英語を話す「という経験・習慣」はおもしろい≫ということになり、
②は≪「具体的に(例えば私が)」英語を話す「という行為の状況・実態」はおもしろい≫ということになります。
 
他の例文を挙げてみます。
≪彼が走っている(○の)(×こと)を見た(○こと)(×の)がない≫
この文の「の」は彼が走っている具体的状況・実態を示し、「こと」は見るという行為を抽象的な経験という概念に置き換えて示している、と言えるでしょう。
また、
≪信じる「こと」はできる「こと」である≫≪早く起きる「こと」にしている≫≪泣く「こと」はないのに≫≪うまい「こと」やったね≫
などの「こと」は「の」に置き換えることはできなく、抽象的な概念としての内容を示しています。
一方、≪読む「の」は問題ないが書く「の」はどうもね≫の「の」は「こと」に置き換えられるが、「こと」にすれば、より抽象的・一般的な色彩が強く感じられます。

「もの」「ひと」「こと」を示す「の」については、いくつかの文法的名称がありますので、補足しておきます。
形式名詞(時枝誠記氏等)、準体助詞(橋本進吉氏)、形式体言、代名助詞などです。また、格助詞の下の体言が省略されたものとする説もあります。

「こと」の言葉としての定義については、北原真夏さんたちが開設した青空学園の「構造日本語定義集」をご覧下さい。→
http://www2.ocn.ne.jp/~aozora/


【質問】(7)「東京へ行く」か「東京に行く」か-

【答えを探る叩き台】
動作の進行「方向」を表す格助詞「へ」と動作の「帰着点」を表す格助詞「に」の「揺れ」から見て行きたいと思います。

≪京「へ」、筑紫(九州)「に」、坂東(関東)「さ」、≫(ロドリゲスの大文典)、
これは室町時代に方向を表す助詞の地域による違いに触れた言葉ですが、「へ」が「に」に侵食される兆しはこの時代にすでにあったようです。

≪①東京「へ」行く≫≪②東京「に」着く≫が「へ」「に」それぞれの本質にあった使い方でしょうが、逆の使い方、≪③東京「に」行く≫≪④東京「へ」着く≫はどうか、と考えてみます。

③は現代の日常会話ではよく耳にするし、むしろ①は押し遣られているかもしれません。一方④は「着く」が帰着点を明確に示す動詞だけに「へ」を使うには無理があります。
「行く」は移動を示す動詞ですが、≪食べ「に」行く≫≪コンサート「に」行く≫のように動作の目的を表す「に」に付く用法の影響が③の広がりに一役買っているようです。

さて、問題は日本語教師の立場から、③を誤用として退けるか、それとも寧ろ多数が使用されている現実の方を採るか、ですが、その前に次の例を見てみます。

(知り合いに道でばったり会って)≪どちら「へ」いらっしゃるんですか≫と言う場合の「へ」は「に」に代えにくいです。なぜならば(所在を訪ねる場合の)≪どちら「に」いらっしゃるんですか≫という表現と区別すべきだからです。これは省略表現≪どちら「へ」?(行き先)≫と≪どちら「に」?(所在)≫にも同じことが言えます。

また、≪東京「へ」の行き方≫のように「の」が続く場合も方向の「へ」「に」に代えられません。

言葉は時代と共に変わり得るものですが、「言葉の揺れ」に対する日本語教師の姿勢として大切なのは「言葉自身に聞く」ことで、言語の持つ自律性に耳を傾けることではないでしょうか。「へ」が「に」に侵食されつつある現実を認めながらも、しかし≪動作の進行方向を表す「へ」の本質≫は現代でも変わっていない、と私は観ます。もちろん日本語学習者にもこの考えを伝えることになります。語の本質を捉えることがその言語の体系・メカニズムを直感的に体得する最良の方法、と信じているからです。


【質問】(8)「日曜日まで休みがない」では日曜は休みか否か?-
次の日曜日にやっと休める場合、「土曜日まで休みがない」と言えばいいのでしょうか?それとも「日曜日まで休みがない」と言えばいいのでしょうか?

【答えを探る叩き台】
例えば店に「大晦日まで開いています」とあれば大晦日は開いています。このように肯定文では、動作や状態の継続到達点として「まで」の前に表現されている時間が含まれます。
ところが「…まで~ない」の否定文では、「…になって初めて~する」の意味に捉えられることが多いのです。したがって一般的には「次の日曜日にやっと休める」場合の表現としては「日曜日まで休みがない」が使われることが多いのではないかと思われます。

以下は、蛇足です。

この否定文での「まで」の解釈(…になって初めて~する)はどうして生まれたのだろうか?

「日曜日まで休みがない」は「日曜日(の一日が終わる)まで休みがない」のか「日曜日(の一日が始まる/になる)まで【は】休みがない」(つまり、日曜日が始まった後すぐに休みになる)のか、認識の誤差が生じやすい表現です。誤差が生じるのは、一日が線として捉えられるからです。

この誤差は、点として捉える時間について言う場合はほとんど生じないと言えるほど小さくなります。例えば「5時まで休みがない」は「5時」が点として捉えられているので「休みのない状態は5時ちょうどまで続くが、5時を少しでも過ぎれば(極端に言うと百万分の一秒でも過ぎれば)休みになる」ので「5時から休みになる」と解釈されてもほとんど問題は生じないわけです。この「点としての時間」から類推されて「日曜日まで休みがない」の認識の誤差が生まれるものと思われます。これは「日」以外の「週、月、年」などの線として捉えられる時間を扱った場合でも生じる現象です。

この誤差は人間の時間に対する基本的な心理傾向から生まれるものですから、他の言語でも同様の問題が起こりうると想像されます。例えばスペイン語のhasta(まで)を使った場合でも" No vendrá hasta mañ ana "(彼は明日まで戻らないだろう)は「彼は明日にならないと戻らないだろう」と認識されます。

以上を考慮すると、ご質問の事例で「~まで休みがない」を使って誤解の少ない表現を探すと、「日曜日【になる】まで【は】休みがない」と言うか「土曜日が【終わる】まで休みがない」と【】内を補うことになるでしょうが、「土曜日までずっと仕事がある」か「日曜日にようやく休みがとれる」のように他の表現を使ったほうが、認識の誤差は少ないと思います。。


【質問】(9)「五千円以上はびた一文払えない」と言えば、五千円は払えるのか?

【答えを探る叩き台】
「~以上」は通常次の二つの意味で使っています。
(1)下限の【基点】を示しそれを【含み】それより上:「~から」の意味:例:6歳【以上】12歳以下=6歳から12歳まで(*「6歳」を含む)
(2)【比較の対象】を基準としてそれを【含まず】それを超える:「~よりもっと…」の意味:例:彼【以上】お金を持っている=彼よりもっと多くのお金を持っている(*「彼」を比較する基準として、その基準を含まず、それを超えて)

ご質問の表現「五千円以上はびた一文払えない」は(1)の場合か(2)の場合か迷いそうですね。でも、
(1)「五千円【から】はびた一文払えない」
(2)「五千円【よりもっと多く】はびた一文払えない」
と確認してみると、普通は(2)の場合として解釈されると思います。

一般的に(1)【基点】には具体的な数値が使われていることが多いですが、ご質問の表現のように(2)【比較の対象】にも数値が使われることがあります。こういう場合は誤解が生じやすいですから、大切な場面では、
「五千円までは払えるが、五千円を超えてはびた一文払えない」のように正確を期したほうがいいでしょう。

(追記:手元にある幾つかの文法解説書には上記の(1)(2)を明確に示したものはなかった。日本語文法にはまだまだ空白があるということか)


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tag : 日本語への質問

 
<連載> 私的国語教育回想
 少しずつ私なりの国語教育の回想を書いていきます。国語教育がより良い方向に進むことが私の願いです

大学卒業後すぐに札幌市内の高校で教鞭を執ったのが私の国語教育に携わった最初である。ここでは14年間勤めた。その後スペインに渡り日本語教育に携わり、帰国後再び日本で国語教育の教壇に立った。東京と茨城の高校である。そして今度はメキシコの日本人学校と語学学校で日本語教育を再度経験し、帰国して静岡の高校で国語教育に携わった。このあと、再びメキシコに戻って現在、語学学校で日本語教育に従事している。

 

ざっと私の経歴を思い出してみると、上記のようになる。だいたい国語教育18年、日本語教育20年という割り振りになる。もっともその間に、東西欧州、南北米大陸を廻る旅をしているから、仕事ばかりしてきたわけではない。むしろ最初の渡欧のときから日本の楔から解き放たれて人生を楽しむことを意識していた、というべきだろう。

目次(タイトルをクリックすると該当項目に跳びます)
1 国語教育における言語教育
2  国語教育の文学解釈偏重について


希望たち 


1 国語教育における言語教育

 
 日本の国語教科書では、すべての言語事項は理解・表現の言語活動の中で扱うのが前提となっていて、小学校にも中学校にも言語あるいは文法の独立した教科書はない(因みに、フランスでは小学校から教科書として『文法』がある)。

 教育課程では、国語科の在り方を「言語の教育としての立場をいっそう明確にする」と強調してはいるものの、現状の国語教育では、「日本語という言語」の教育は「表現・理解の指導」の中に埋没してしまっているのが実情である。

 国語の教育が母国語の教育であることを考えれば、単に理解・表現のための言語技能を養うに留まらず、自国の代表的言語、即ち「日本語そのものについて、より深い理解を持たせ自覚させる教育」が教科書の中で具体化されるべきである。

2  国語教育の文学解釈偏重について

  今日の「国語」教育は文学作品の解釈に偏りすぎていて、肝心の日本語そのものを一言語としてきちんと身に付けさせる教育が質量共にもっとなされるべきである。日本での14年間の「国語」教育の後、海外(スペイン)で17年間外国人に「日本語」を教え、再び二十年ぶりに日本で国語を教えてみて、その制度や中身は三十数年前に教壇に立ったころの国語教育と驚くほど変わっていない。否、私が中学生、高校生だった頃に受けた国語教育と比べても、学習すべき内容、授業の仕方はほとんど変わっていない、と言っていいだろう。

  文学作品の鑑賞とその分析中心のこれまでの「国語」からディベート力や文章作成力、コミュニケーション能力、そして何よりも言語としての「日本語力」そのものが「国語」教科の中心に据えられる方向に進められるべきである、と言うのが、長年、国語教育へ抱いてきた私の考えである。
スペインから日本に戻ってきて2年間「国語」教育に携わり、現在は再び海外で「日本語」を教えているが、国語教育についての上記の私の考えはますます強くなっている。

tag : 国語 国語教育 言語教育 文学偏重

 
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